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河内長野市役所のすぐ横にある「大池」

 先日住民票を動かし、正式に河内長野市民になりました。でも引っ越しまで10日あるのでまだ住んではいない状態。ところで河内長野市役所のすぐ横にある池が気になったのです。
 寺ヶ池あたりと比べると水量も少なく周辺もあまり整備されていない池。その池の正体を調べてみると、名前が大池です。そして池にまつわるエピソードを記した碑を見つけました。


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 こちらが河内長野市役所です。立派な市役所で、かつ徒歩圏内にあるので非常に助かります。昭和63年にできたとありました。こちらに先日転入届などは1Fで行います。他のフロアも気になってみましたがいずれかかわりがあるかどうか? しかし今日はこちらがメインではありません。

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 市役所から見て左側にある池が非常に気になりました。周りが公園になっている丘の上の寺ヶ池と違い、国道170号線の交通量の多いところの近くにあります。だからゆったりと池を眺めという雰囲気ではありません。さらに池が干上がっているというか、あまり水が溜まっていませんでした。それでも水鳥の姿が見られたのは少し和めましたね。

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 このときとは別の日に撮影しています。見比べるとわかるのですが、ほぼ干上がっていました。そこにある緑のものはミズゴケ? さらに細かいひびが入っていて、見ようによってはアートっぽさがあります。

 周囲は道路があったので少し歩いてみると、この池に関係する碑を発見しました。

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何が書いてあるのでしょうか? 碑文を一部引用します。

私達の祖先は今□去る400有余年前、治水と農の繁栄を願い、この地に7つの池を築造して以来、今日□て収穫の初物をその水神に供え村の守りとして護持して来した。

 この大池の他にも7つの池が存在したこと、江戸時代に治水や農業に関する目的のために造られたようです。

の地を取り巻く社会環境の変動は予想以上に大きくついに時代の要請には抗し難く昭和36年大谷池を住宅用地として提供したのをはじめすりはち池、すな池を長野高等学校用地として大阪府に大池こも池の一部6,000坪を河内長野市公共用地として市に、桜池はその効用が少なくなり保安上、日本農薬に提供しました。

 高度経済成長のころに池を住宅用地や学校用地、日本農薬(会社?)などを提供したとあります。
 この大池も、元々はさらに大きい池だったようで、6000坪分を公共用地として市に提供したとあります。
 ちなみに今の河内長野市の市庁舎は昭和63年に西代町から現在の原町に移転したとありますので、池を埋め立てていきなり建物を建築したようではなさそうですが、あそこは多分元池があったところだった可能性はありそうです。

今心ならずもこの貴重な遺産の過半を失いましたが、これらはいづれも新時代の社会に貢献する教育行政居住等の場に供したもので、この□とを必ずや、先祖もお許し下さることと信じます。

 ちなみにこの石碑は、河内長野市原池水利組合が昭和54年3月21日建立とありました。 

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 さらに隣にはもう一つの石碑があります。

 こちらも確認すると江戸時代の覚書のようで、池を掘ったとき?あるいはこの当時池の恩恵を受けた人たちの資料でしょうか? 1705年の日付がありました。貴重な資料なので、こちらも前半部分ですが引用します。

宝永二乙酉年(1705年)
河内国錦部郡領分14ヶ村明細帳
 3月 御代官 坂村五郎兵衛より
 錦部郡長野庄之内原村
1、高375石5斗1升1合
1、原村□長野村迄10町 市村迄9町18間
     西代村迄3町半市村新田迄5町20間
     古野村迄1町56間 野村迄7町
     伏山新田迄27町
1、家数125軒内 121軒在家 鰥寡共
         2ヶ寺大念仏宗古野村極楽寺末寺 薬師寺 阿弥陀寺
         1ヶ寺8無夲寺 法音寺
         1ヶ寺8無本寺 明恩寺
1,惣人数 男304人 女 345人

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 ということで、市役所のすぐ隣にある大池。正直何もないようなところで、一見見逃しそう。それでもいろいろ調べると歴史などがわかり面白いです。資料も少なく、まだ未知の部分もありますが、いずれ分かればまた紹介しましょう。

大池の場所:大阪府河内長野市原町1丁目4

河内長野大池地図

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