少し前に河内長野の三日市町にあった三日市宿の足跡を回りました。そのなかで、こちらの記事で紹介した、三日市宿の高札と上田町に、増福寺というのがあります。当初あまり気にしてませんでしたが、改めて調べると興味深い情報が出てきました。
増福寺は、室町時代に畠山義深(よしふか)という人が、この場所に七宝庵というものを設けて、隠居の場所としました。
畠山義深という人は、畠山氏の6代目当主。越前の守護をしたのちに、河内の守護になりました。この畠山氏は室町時代には細川、斯波と並んだ三管領家のひとりです。管領というのは将軍に次ぐ職なので、足利将軍家に次ぐ実力のあった一族のひとりです。
義深の死後に村人が彼の冥福を祈り、追善法要が行われました。そして村人によって寺が建立されます。法名を寺号とし、増福寺と名付けられました。つまり村人から親しまれたのでしょう。1394年~1411年頃に建立されています。
すぐ横に三日市地区裁縫師匠・畠山比左媼(はたけやまひさおりな)の碑とありました。碑文を解読したものを下記に引用します。
畠山媼の名はひさ 三日市村の上田の里人 独居生活で、近くの子女を
集め、裁縫を教えていた。性格は温柔(おんじゅう)で、指導は懇切(こんせつ)、女性としての教養及び帰徳を養い、遠近から学ぶ者多く、集い教育を受けた。
裁縫を教える事約四十年、明治二十六年十一月二十一日病死。
年齢六十四歳。教えを受けた子女がその功績を募って集まり、追思し、徳を慕い偲び、書にしたためる。
畠山とあるので、畠山氏の子孫かと思いましたが、それには触れていません。なのであくまで推測。ただこういう碑文が建てられた裁縫の先生もまた非常に愛された人なんだろうと思います。
こちらは上田地区の地車置き場ですね。