ふるさと歴史学習館の外にあった石碑
以前こちらの河内長野ふるさと歴史学習館に行ったときの記事を書きました。それについてはこちらをご覧ください。
館内には河内長野に関する、歴史的な展示物や遺跡で発見された土器などが展示していました。無料なのに非常に見ごたえがありましたね。
ところが実は外にも気になる展示物がありました。それがこちらです。
なんらかの碑であることは間違いありません。後で確認しようとしたら歴史学習館の人がこの碑について、説明を書いた紙をくれました。
それがこちらです。元々あったものを保存のために移築したようで、元の場所なども書いてあります。
1,2,5についてはより詳しく場所が書いてあるので、ある程度想像できますね。しかし3,4がどこにあるのか? 地図を見ながら確認しました。最初は3の古野町から見ましょう。
ちょうど色が違うあたりに該当します。河内長野駅のすぐ北側ですね。ここには西高野街道があるので、そのどこかにあったものでしょう。河内長野大仏のある極楽寺も範囲に含まれていました。
ついでにこの古野町を調べてみると、旧長野町を構成している旧古野村からの由来とのこと。さらに1660年(万治3年)に膳所藩代官所があったそうです。
また、西高野街道の駅場(駅家:馬が置いてあり早馬の役目を果たしていた)があって、繁栄したそうですが、あるとき大火によって村全体が焼失。仕方なく一時的に、南側の三日市に駅を移しました。
ところが再び戻ってくることなく、三日市町が宿場町として繁栄したそうです。
そしてもうひとつ鳩原(はとはら)という地名が、どこにあるかと探したら意外なところにありました。
ずいぶん山奥にありますね。最寄り駅が南海高野線の千早口駅。
調べてみると、かつては南河内郡川上村だったところで明治時代までは鳩原村と言うのがあったようです。
川上村が長野町らとともに合併して河内長野市になるまでは、村役場や公民館があるほど村の中心だったところでした。
そして歴史は古く、699年の文武天皇の治世にこの地域(錦織部)の住民が白鳩を朝廷に献上しました。それを知った天皇が喜び、租税を1年間免除したとか。そこから地名が鳩原になったという由来が続日本紀に記されていたそうです。
つまり川上神社(旧鳩原神社)や、村役場が置かれているようなところだからこういう道標があったというのは頷けますね。
また元々これらの石碑があった場所には、時間があるときに立ち寄ってみたいと思いました。
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