日野地区にあった小さな地蔵尊とその由来
昨日に引き続き河内長野日野地区の記事です。この辺りはなかなか行くこともないので、集中していろいろ見てきました。
ちなみに日野地区はこちらの色が反転しているところです。
昨日書いたほたるの里は、日野地区でも北側つまり河内長野の中心部よりにありました。
あとこの広い日野地区のどこかに、知る人ぞ知る棚田があります。
日野地区の面積は本当に広いですが、特に南の方は何にもなさそう。でもまだこの先にダムで有名な滝畑地区が控えています。
北の方にある集落にはほたるの里がありましたが、家などはわずかで、すごく遠いところに来た気がしました。
町を歩いていると非常に古い地蔵尊や石碑が祀られています。横にはこの地蔵尊の由来についての説明版がありました。
碑文を引用します。
地蔵尊の由来
お地蔵さんは、寛文七年(一六六七)霊元天皇の時代、この地方に疫病が流行した時、その退散を祈願し、日野村の六斎念仏講の人たち二十人がお祠りしたものです。最初は春日神社(現日野地区東集会所)の附近にありましたが、名召谷道改修工事により本新宅の家先に移して祠っていた。平成十四年吉日を選んでこの地に安置することになりました。中央に延命地蔵尊、右に寛文七年丁未天二月吉日の年号、左に為河川錦部郡日野村六斎念仏衆中同行二十人後世菩薩也と刻まれ、右の道標には右こんかうさん(こんごうさん)左大坂と刻まれている。左の墓碑の裏面には六世中興師匠、為俗名九郎兵衛善堤(日野の六斎念仏の講元大宅九郎兵衛)と刻まれている。昔は日野で六斎念仏が盛んであったことがわかり、現在伝わっています。獅子舞とともに日野の歴史の一端がうかがえます。
古い石碑で刻まれていたものを平成の時代に新しい石碑を立てて書かれているからこそ知りえた事実。また深堀していくと新しい発見があるかもしれません。
ところで名召谷道という言葉が気になったので調べました。しかしほとんど情報がなく、こちらの日野の口碑というこちらの古い書物でかろうじて出て来ます。
ちなみに六斎念仏(ろくさいねんぶつ)とは、民間信仰、または民俗芸能のひとつで、六斎日(8日・14日・15日・23日・29日・30日)に行われた念仏であるとか。京都や若狭が有名なようですが、河内長野の日野にもその伝統があったわけですね。
道標がありました。そういえば滝畑ダムはこのさらに奥ですが、まだ行けてません。後は行ったことありますが、ずいぶん遠い気がするのは気のせいでしょうか?