ユカ夫
理不尽な理由で会社をクビになった謙太と、お粥やとの出会いを描いたお話です。
僕は、白川流菜と一緒に海辺に来ていた。 できれば、どこまでも地平線の続く広い草原に行きたかったが、そんな場所は近くにあるはずもなく、日本中を探しても簡単には見つからないだろう。 たとえ、見つかったとしも、自転車で行くのは無理だし。 そんな訳で、僕たちが訪れた場所は、自宅から自転車を走らせて三十分くらいのところにある人口浜だ。 浜は人口だが、その向こうにある海は本物だから、とりあえず良しとする。 秋の海辺に人の姿は限りなく少ない。 遠くで、小さな犬を散歩させる女の人の姿があ
土曜日の午後、ホームルームが終わると同時に教室から飛び出した。 こんな日に限って、橋本先生のお説教が長引いたのは不運としか言えない。 伊部との対決の後、エロ本が机の中に入っていることはなく、靴が行方不明になることもなかった。一時的なことかもしれないが一安心である。 また、嫌がらせが始まったら次の手を考えるだけだ。 佐藤も少しだけ変わった気がする。伊部たちの姿を見ても、おどおどする場面を目にすることが少なくなった。 でも、僕にはわかる。佐藤の心の中には、苦しさと怖さが渦巻い
教室には、いつもよりも五分ほど早く到着した。 始業のベルが鳴り橋本先生の大きな体が現れるまでには、まだ時間がある。 教室の中には、教科書に目を通す者や隣の生徒と談笑する者、額を机につけて眠っている生徒もいた。佐藤の席には、ちょこんと小さな背中がある。 大きく息を吸い込み、心の芯に届くようにと、音を出して吐き出した。 机の中にあったエロ本を右手で握り締め、静かに席から立ち上がり、伊部のほうへ近づいた。 「何だよ?」伊部は口許をグニャリと歪めた。 僕は口を結んだまま、薄笑いを
上手く眠れない日が二日続いた。 人間は感情に影響される生き物だと痛切に感じる。 現在の時刻は午前七時三分、僕は制服に着替え、じっと椅子に座っている。 時計の秒針の音が鮮明に聞き取れる。 とれだけの時間、そうしていただろう。 不意に扉の向こうから、玄関扉が開く音が聞こえてきた。 一階へ降りると、見覚えのある刑事の笑顔が待っていた。 笑顔と言っても、口角が吊り上がっている程度で、幼い子供が見たら泣き出しそうな怖顔だ。 「君の自転車を返しに来たんだ」 「よかったじゃない」母が小
夕食の後、僕は部屋に閉じこもった。 机の上には、佐藤がくれたメモが広げてある。 四つの丸のうち、最後のものには赤い丸が重ね書きしてあった。 僕の自転車に纏わる事件は火曜日の夜に起きた。 それを時系列に並べればこうなる。 まず、午後六時四十分過ぎに橙色の自転車が盗まれた。そして午後七時十分頃、線路内に放置された僕の自転車が発見され、その結果、電車には四十分程度の遅れが生じた。 電車が止まっていた午後七時三十分頃に、片山さんの奥さんはショッピングモールで青色の皿を購入している
足音に注意しながら、片山さんの後を付けた。 高そうなグレーのスーツを身にまとい、艶のある茶色の鞄を手にした片山さんは、見るからにエリートサラリーマンといった様子だ。 いつも、三着で二万円のスーツを着ている父とは大違いである。 片山さんとの距離が二メートルを切ったところで、僕は声をかけた。 「おはようございます」 片山さんは、ビクリと肩を上下させて足を止め、振り向いた。 「おはよう……」 黒い瞳が揺れたのは、単純に驚いたのが半分、残りの半分は猜疑心と言ったところだろう。 「
頭が冴えて眠気は訪れない。 天井を見つめながら、夜が明けるのを待った。 カーテンの隙間から朝陽が射し込むと、視界は黒色から灰色へと変わり始め、天井の隅に滲んだ茶色い染みの形がはっきりと見えたときには、窓の向こうからスズメの囀りが聞こえていた。 チュンチュンという澄んだ鳴き声が鼓膜を優しく震わせる。 その音を聞きながら、僕は瞼を閉じた。 脳裏に、紫色を帯びた青い欠片で敷き詰められた道が浮かび、その上を橙色の自転車が走っている。 青紫の小さな塊は、お洒落なデザート皿の欠片だ。
家に戻ると、台所から流れて来る母の鼻歌を聞きながら、足音を忍ばて階段を上がり、自分の部屋に入った。 ジーパンを脱ぎ、泥で汚れた尻の部分をまじまじと見た。 擦れたせいか、泥は繊維の奥まで染み込んでいる。母に見つかったら何か言われそうだ……。 他の洗濯物に紛れ込ませて、洗濯機の中に放り込むしかないだろう。 手で腹に触ると、ズキンと鈍い痛みが走り、眉間に力が入った 小早川の言うように、腹の防御が甘かった。 でも、いきなり腹を蹴るのは、どうかと思う。 人の道に反するのではないか。
インターフォンのボタンを押すと、女の高い声が返ってきた。 おそらく、小早川の母親だろう。 息子と同じく、背の高い女性で、痩せていたのを覚えている。 自分の名前を伝え、「小早川君の友達です」と告げると、「少々、お待ちください」という返事の後、プツリと通話は途切れた。 待つこと約二分、玄関の扉か開き、ぬっと長身の小早川が現われた。 百八十センチ以上ある身長は、いつ見てもでかい。着ている青いチェックのシャツはLを超えてLLサイズかもしれない。 小早川は僕の姿を見つけると、一瞬だ
母は台所で、夕飯の支度をしていた。 その丸い背中に近づき、僕は声をかけた。 「母さん、僕の自転車の鍵の番号を知っていたよね?」 母は包丁を持つ手を休め、やや疲れ気味の表情に笑みを浮かべた。 「忘れろといっても、忘れられないわよ」 鍵の番号は「二三一六」だ。 その番号になったのは偶然でしかなく、買ったときからその番号だった。 記憶法の一つにゴロ合わせがある。 社会の年表なんかでよく使うやつだ。大学進学を希望している僕も、ゴロ合わせにはお世話になっている。だから鍵の番号にもゴロ
ぼやきながら隣にへたり込んだ健太の顔がパッと明るくなった。 「兄ちゃん、これだよ」 健太は、盤の上から青い球体を拾い上げた。 「なんで気がつかなかったんだろう。さっき調べたのに……」 健太は、指で摘んだ小さな青い玉をまじまじと見ている。 満足したような、その表情はプロの鑑定士と変わらない。 盤の上には、同じような大きさの青色の玉が載っている。 色と形が似ているという理由もあるが、最初に「この中には、ない」と思い込んでしまったから、見つからなかったのだろう。 先入観は目を曇
「おじゃましました」 廊下から女の子の可愛らしい声が聞こえてきた。 一人、いや二人の声だ。 もちろん、声の主は僕の知り合いのはずもなく、弟のガールフレンドだ。 それに続いて玄関のドアが閉まる音が響き、コツンコツンと階段を駆け上がる小気味よい足音と共に、健太が部屋に入って来た。 「ノックぐらいしろよ」 「ごめん。電車の事件で何かわかった?」 言葉とは裏腹に、健太の表情には申し訳なさの欠片もない。 健太は好奇心で目を輝かせながら、僕の顔を覗き込むようにして見ている。 「わから
僕は、事件に関係する二枚の紙切れを、憂鬱な気持ちで眺めた。 隣の健太の部屋から、女の子の笑い声が聞こえてくる。 弟には、もうガールフレンドがいる。 ときたま発作のように生じる壁に耳を当てたいという衝動を、どうにか抑えられるのは、兄としてのプライドがあるからだ。 僕が中学一年生のときは、好きな女の子を遠くから眺めているだけだった。それが、白川流菜だ。 流菜とは、中学の三年間、ただのクラスメイトとして過ごした。気が付いたときには、中学を卒業する時期を迎えていて、僕の初恋はそこ
駐輪場へ向かうと、自転車の隣でひっそりと佇む流菜の姿があった。 僕の姿を見つけると、流菜は肩まである柔らかい黒髪を揺らしながら駆け寄って来た。 その姿を見て、僕の心臓はドクンと跳ね上がる。 「高見沢君、警察の件は大丈夫だった?」 流菜の大きな潤んだ瞳で見つめられると胸の奥が熱くなり、息苦しさが増した。思わず視線を逸らしてしまった自分が情けない。 「ああ……問題ない」喉に力を入れ、敢えてぶっきらぼうに答えた。 流菜には、ママチャリに乗る姿を見られたくない。 足早に進む僕に、
伊部たちも、本気で僕を犯人とは思っていないはずだ。嫌がらせの延長でしかない。でも、こんなデマを信じる者がいても不思議ではない。 白川流菜はどうだろう……。 今朝、廊下ですれ違ったとき、心配そうな眼差しを向けていた。 教頭の本間は、明らかに疑っていたではないか。刑事も、僕を疑い続けているかもしれない。 容疑者のままでは気持ちが悪い。 何よりも橙色の自転車を取り戻すことができない。 身の潔白は、自分で証明しなければならない……。 そうは言っても、数学の証明問題のように公式があ
引戸の開くガラガラという音が響いて、教師の橋本が入ってきた。 五十を過ぎても太る体質は変わらないらしく、腹だけ見れば十両の力士に引けをとらない。 跳ねるように前から二番目の自分の席に戻る佐藤の後ろ姿を眺めながら、僕は彼から渡されたメモを机の中に押し込んだ。 起立、礼の後、橋本が低い声を上げながら僕を見た。 「高見沢、ちょっと来てくれないか」 クラスの全員の視線が、再び僕の顔に絡み付いた。 どうやら、『重要参考人』の件は、職員室でも話題を独占したらしい。 どんな厳しい尋問を