【連載小説】 オレンジロード14
家に戻ると、台所から流れて来る母の鼻歌を聞きながら、足音を忍ばて階段を上がり、自分の部屋に入った。
ジーパンを脱ぎ、泥で汚れた尻の部分をまじまじと見た。
擦れたせいか、泥は繊維の奥まで染み込んでいる。母に見つかったら何か言われそうだ……。
他の洗濯物に紛れ込ませて、洗濯機の中に放り込むしかないだろう。
手で腹に触ると、ズキンと鈍い痛みが走り、眉間に力が入った
小早川の言うように、腹の防御が甘かった。
でも、いきなり腹を蹴るのは、どうかと思う。
人の道に反するのではないか。
「兄ちゃん、どうしたの?」
五センチほど開いたドアの隙間から、健太の顔が覗いている。
僕は、下着しか履いていない下半身を隠すようにしながら、急いでジャージに足首を通した。
「喧嘩をして、お腹でも蹴られたの?」
相変わらず、健太の勘は鋭い。
ジャージを穿き終えると、ベッドの上にドスンと腰を下ろした。
腹の奥から痛みがじわりと滲んでくる。
健太は、難しそうな顔をしたまま、僕の腹の当たりをじっと見つめている。
「兄ちゃんが喧嘩をした」とでも両親に告げ口されたら面倒なことになる。
ここは、正直に話しておいたほうが賢明だろう。
「小早川の奴と、ちょっと揉めたんだ」
「小早川って、向かいのお屋敷の?」
僕は、苦笑いを浮かべながら頷いた。
確かにでかい家だが、「お屋敷」は言い過ぎだ。
「負けたの?」
「喧嘩をしたわけじゃない。まあ、一発だけ腹にもらったけれど」
「負けたんだね……」
健太はそれが当然と言うように、力強く頷いた。
「気にしないことだよ。いずれ、兄ちゃんの仇は僕が取ってやるから」
顔に滲んだ苦笑いをどうにか引っ込めてから、僕は口を開いた。
「謙太は、小早川家のことは知っているのか?」
僕の小早川家に関する知識は乏しい。知っていることと言えば、裕福な家で、僕と同じ年の一人息子がいるという程度だ。
「あそこは、両親がうまくいっていないらしいよ。お父さんは、建設会社を経営しているから、お金はうちの何百倍もあるらしい。でも、外に女がいるんだって。それで、離婚するか、しないかで泥沼状態らしいよ」
健太は国語の教科書を朗読するように、すらすらと言った。
「その話、どこで聞いたんだ?」
「この近所じゃ、有名な話しだよ。あんな家じゃあ、息子も大変だろうね。うちは、お金がないから、父さんが愛人を作る心配はないし、その分、幸せだと考えるべきだよ」
ふっ、と笑った健太の顔が、妙に大人びて見える。
小早川が言っていた「何もないんだ」という言葉を思い返した。
彼の心も隙間だらけなのだろう。
「男と女は難しいね……」
健太は、ぽつりとそう言に残し、部屋から出て行った。
これでは、どちらが兄なのかわからない。
僕の自転車を盗んだ犯人は、小早川ではない気がする。
それなら犯人は誰なのか……。
一階から、父の大きな声が聞こえてきた。
「ケーキを買ってきたぞ。夕飯の後にみんなで食べよう」
廊下から、健太の「やった」という歓声が響いた。
高見沢家では、クリスマスを含めて、ケーキは、年に数回しかテーブルに載らない。まれに、父が買ってくることはあったが、それは仕事が上手くいったときか、何か後ろめたいことがあるときと決まっている。
父の張りのある声からして、おそらく前者だ。
この前、ケーキを食べたのはいつだったか。
去年のクリスマスではない。二年生になって間もない頃だ……。
僕は皿の上に載ったショートケーキを思い出し、健太の部屋に走り込んだ。
「健太、昨日ゲームをしたときに出した、あの青い欠片はどこで拾ったんだ?」
健太は、大きく目を見開いて、下唇を噛み締めている。
何か隠し事があるときの表情だ。
「ゴミの集積所に落ちていたんだ」健太は消え入るような声で答えた。
その場所は、家から十メートルほど離れた空地の前だ。
月曜日と金曜日が燃えるゴミで、火曜日が資源ゴミ、そして水曜日が不燃ゴミの収集日。どの日も朝の八時までに出すことになっていた。
登校する途中、母に頼まれてゴミを出すことがあったから覚えている。
僕は、おどおどしている健太を睨み付けた。
まだ、隠し事をしているのは明らかだ。
「ごめんなさい……。ゴミ袋を盗んだんだ。昨日の夜、ポツンと置いてあったから……。袋の向こうに青色が透けて見えたんだ」
健太は押入れを開け、奥から半透明のビニール袋を取り出した。
続いて、両手を使って袋の結び目を解き、口の部分を広げて中を見せた。
昨日目にした青い欠片と、同じ色の破片が、たくさん詰まっていた。
小さく砕けたものもあるし、少し大き目のものもある。
ジグソーパズルのように、元の形に修復するには、かなりの労力を費やすことだろう。
しかし、僕には発掘された土器の欠片を復元する必要はなかった。
元の形を知っていたからだ。
「兄ちゃん、僕、警察に逮捕されるのかな」
健太の瞳は小刻みに揺れている。
「大丈夫だよ。ゴミ袋を拾っただけなんだ。それに、兄ちゃんは弟を売るような真似はしない」
健太は、音を立てながら盛大に息を吐き、大げさに肩の力を抜いた。
この青色の欠片と橙色の自転車の盗難事件には、かならず関係がある。
僕は、そう確信した。
オレンジロード15へ続きます。
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