【連載小説】 オレンジロード21
僕は、白川流菜と一緒に海辺に来ていた。
できれば、どこまでも地平線の続く広い草原に行きたかったが、そんな場所は近くにあるはずもなく、日本中を探しても簡単には見つからないだろう。
たとえ、見つかったとしも、自転車で行くのは無理だし。
そんな訳で、僕たちが訪れた場所は、自宅から自転車を走らせて三十分くらいのところにある人口浜だ。
浜は人口だが、その向こうにある海は本物だから、とりあえず良しとする。
秋の海辺に人の姿は限りなく少ない。
遠くで、小さな犬を散歩させる女の人の姿がある。ジョギングをする中年男の足はふらふらだ。仲良く並んで歩く老夫婦は何とも微笑ましい。
ひんやりとした潮風が、流菜の黒髪をさらりと揺らした。
それと同時に白いスカートが膨らんだが、僕はあえて見ないようにする。
海鳥が風に流され、気持ちよさそうに飛んでいる。
「夕陽の中を走りたかったわ」流菜が残念そうに呟いた。
「そうなんだ……」僕は、恨めしそうに空を仰ぎ見た。
空は薄い雲で覆われ、沈みかけた太陽の姿は見えない。
「でも、夕陽の代わりはあるから」
流菜は、微笑みながら僕の自転車に流し見た。
「その橙色は夕陽色でしょ」
僕は、自分の自転車をまじまじと見つめた。
橙色は、夕陽色。
言われてみれば、その通りだ。
流菜は、自転車の橙色に夕陽を見ていたらしい。
父さんと同じように……。
「後ろに乗ってもいい?」
流菜がピンク色の自転車から降りると、白色のスカートが大きく揺れ、一瞬だけ白い太腿が見えた。
僕が咄嗟に視線を逸らしたのは言うまでもない。
スタンドを立て、自転車を道の脇に置いてから、流菜は僕に近づいて来た。僕の自転車の荷台に、遠慮がちに腰を下ろした流菜は、白くて滑らかな右手を僕のお腹に回した。
僕は腹筋に力を入れた。
贅肉を隠すためではない。父と違い、僕にそんな無駄な肉はない。
緊張したからだ。
僕のお腹に、控え目に触れた流菜の手はとても温かい。
もしかしたら、僕の急上昇した体温のせいかもしれないが。
流菜の息遣いを感じながら、僕は大きく息を吸い込んだ。
「行くよ」そう声をかけてから、ペダルに乗せた足に力を入れる。
最初の数メートルだけ、自転車は左右にブレたが、すぐに安定し、まっすぐに走り出した。
潮の匂いが体の中を擦り抜けていく。
鼓膜を揺らし「ゴォー」という風の音が心地いい。
心臓は、スキップするように鼓動を打っている。
流菜の手の温もりは、でこまでも柔らかい。
「どうして夕陽色が好きなの?」
僕は前を見つめたまま訊いた。
「アメリカの映画で、恋人同士が夕焼けに照らされた野原を、こんな風に、自転車で二人乗りして走るシーンがあったの。すごく素敵だったわ……」
流菜はそこで言葉を切り、手に力を入れてから言葉を続けた。
「その自転車の色は、夕陽色に染まっていて橙色に見えたの」
「恋人同士」という言葉が、耳の奥で残響した。
父は「幸福を呼ぶ橙色の自転車」と口にしたのだ。
若き日の父も彼女と一緒に、夕焼けの中を自転車で走ったのだろうか。
そして、告白した……。
父の隣にいた女の子は、自転車の鍵のゴロに無邪気に喜ぶ子だったのだろうか。両親は高校の同級生だ。その可能性はかなり高い。
それに、あの父が二人以上の女の子にモテたとは思えない。
白い雲の隙間から、光が射し込んだ。
その光は、橙色を帯びている。
下へ下へと流れるオレンジの光は、天から降りて来た梯子のようだ。
流菜の細い体が、ピクリと動いたのがわかった。
彼女の目には、空から降りて来る天使が映っているのかもしれない。
ゆっくりと橙色の光は広がり、辺り一面が、赤味を帯びたオレンジ色に包まれた。
海も風も、橙色に変わっている。
僕の体も、流菜の白い手も橙色に染まっていた。
すべてが、橙色の世界に溶け込んでいる。
目の前には、オレンジ色の道がどこまでも続いている。
汗で濡れた頬を、風が優しく撫でた。
さっきまで、ひんやりとしていた風は、今はとても温かい……。
心の隙間が埋まるような温かさだった。 (了)
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