【連載小説】 オレンジロード13
インターフォンのボタンを押すと、女の高い声が返ってきた。
おそらく、小早川の母親だろう。
息子と同じく、背の高い女性で、痩せていたのを覚えている。
自分の名前を伝え、「小早川君の友達です」と告げると、「少々、お待ちください」という返事の後、プツリと通話は途切れた。
待つこと約二分、玄関の扉か開き、ぬっと長身の小早川が現われた。
百八十センチ以上ある身長は、いつ見てもでかい。着ている青いチェックのシャツはLを超えてLLサイズかもしれない。
小早川は僕の姿を見つけると、一瞬だけ驚いたように目を大きくしたが、すぐに細めると、ゆっくりとした足取りで近づいて来た。
「俺に何の用だ?」
喧嘩をするようなドスの利いた声に、腹の底が冷たくなる。
しかし、ここで怯んではいけない。
僕は、悟られないように唾を呑み込んでから口を開いた。
「訊きたいことがある。少し顔を貸してくれないか」
負けじと、腹の奥から声を搾り出したつもりだが、口から出た声はタイヤから空気が抜ける音のように情けない。
断られたらどうしよう、と心配したが、小早川はあっさりと頷いた。
行き先は、徒歩で五分のほどのところにある児童公園だ。
僕は背後から聞こえて来る、小早川の足音に神経を集中しながら歩を進めた。
公園の中には誰の姿もなかった。暗闇の中に、淡い光が滲んでいる。ブランコが二台、物悲し気に佇んでいた。
「用件を早く言えよ」
小早川の苛立った声が背後から聞こえてきた。
僕は振り向いて、小早川の顔をじっと見つめた。
一メートルほど離れているとは言え、身長の差のせいで、どうしても見上げる格好になる。
気付かれないように爪先立ちをしたが、たいして意味はなかった。
僕は無駄なあがきを止め、踵を地面に付けた。
「俺の自転車の鍵の番号を知っているよな」
「僕」なんて言っていたら舐められるだけだ。「俺」を使って悪さを出さなくてはいけない。それに語尾も、「いますか」ではなく、「いるよな」だ。
「知っていたよ」
あっさりと白状した小早川は悪びれる様子もなく、鼻で笑っている。
こんなに簡単に口を割るとは予想していなかった。
面を食らった僕は、体勢を立て直すべく、次の言葉をぶつけた。
「俺の自転車を盗んだのはお前か?」
「知らない……」
小早川は口許をグニャリと歪めた。
簡単には自白しそうもない。
「お前が、自転車を盗んで、線路に置いたんだろ」
ここは、強気で押すしかない。
「そうだとしたら、どうするんだ?」
小早川の目元に不敵な笑いが浮かんだ。
やはり、犯人はこいつだ……。
小早川は、小バカにするように、歪んだ笑みを顔中に広げた。
頬がカッと熱くなり、頭に血が上った。
気が付いたときには、僕は足を踏み出し、小早川の胸倉を掴んでいた。
しかし、力の差は歴然としていた。
小早川に僕の腕をガッチリと掴み、ぐいと顔を近づけた。
目尻が吊り上がったその表情はとてつもなく怖い。
金を出せと言われたら、素直に差し出してしまうだろう。
頭に上った血が急速に落ちていく。
こんなはずじゃなかった。話し合いで解決するつもりだったのに……。
僕は暴力が嫌いだ。殴られるのも、殴るのも、どちらも苦手だ。
そんな僕が、どうして先に手を出してしまったのか……。
そんなことを考えているうちに、僕の手はあっけなく引き剥がされた。
次の瞬間、腹に激痛が走った。
口の端から「ぐふっ」と鈍い音が漏れ、僕はその場に膝を付いた。
腹の痛みで呼吸ができない。口を大きく開けながら懸命に息を吸った。
「お前みたいな奴は嫌いなんだよ。家族全員で仲良しゴッコをして、馬鹿みたいだ。高校生にもなって恥ずかしくないのか」
小早川は、僕を見下ろしながら吐き捨てるように言った。
立ち上がろうしたが脚に力が入らず、地面に膝を付けたまま顔を上げた。
「お前のうちは、もっと幸せじゃないか……。あんな大きな家で暮らして、高い自転車も買ってもらえる。何が不服なんだよ」
寂しげな虫の鳴き声が、夜の闇に沈んだ茂みから聞こえてくる。
そのか細い音に、僕の苦しい呼吸音が被さる。
「俺には、何もないんだよ」小さな声には力が籠っている。
「僕だって同じさ……」苦い息と共に声を押し出した。
小早川の足音が鼓膜を震わせた。
また、蹴られると思い、瞼をきつく閉じて歯を食いしばった。
いくら待っても、衝撃はやってこない。
そっと瞼を開けると、目の前に小早川の顔があった。
眼光は鋭いままだが、その中に敵意は見当たらない。
次の瞬間、肩を掴まれ、ぐいと持ち上げられた。
地面に足を付けた僕を見下ろしながら、小早川はぽつりと言った。
「悪かったな……。でも、あれくらい避けろよ。腹の防御は基本だぞ」
何と言ったらよいのかわからず、僕は口を閉じたまま、小早川の次の言葉を待った。
「自転車を盗んだのは俺じゃない」
「本当か?」
「ああ……。あんな自転車、金をもらっても盗まない」
その意見には僕も賛成だ。
しかし、小早川の言葉を信じてよいものなのか……わからない。
「自分が良い人間とは言わない。だが、卑怯な人間でないことは胸を張って言える」
そう言い残して、小早川はくるりと背中を向けて歩き出した。
腹の鈍い痛みを堪えながら、僕は遠ざかって行く小早川の背中を見送った。
オレンジロード14へ続きます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?