ジェーン・バーキンに憧れて、ジーパン履いてる場合か?新卒入社1ヶ月で、クビになった話
「明日から、会社来なくていいから」
社長室に呼び出されたのは、夕方17時頃のこと。仕事を済ませて、いつものように自転車を漕いで帰るつもりだった。
そもそも昼過ぎくらいに、職場の先輩から、神妙な顔つきで「社長に呼ばれてるよ」と言われた時点で、私も何かを察すればよかった。
無駄にポジティブなので、てっきり昇格かと。流石に入社して一ヶ月すぎたばかりだし。いくらなんでも、早すぎやしないだろうか。昇格。
ところが、昇格どころか降格でもなく。まさかのクビだった。
社長からクビを宣告され、全身から血の気がスッと引く。でも、動揺しているのを悟られたら負けだ。ここは平常心を装わなければ。
「私は、どうしたらいいのでしょうか」
「だから、明日から会社に来ないでください」
「なんでそうなったんですか?撤回できないんですか?」
「そう言われても……。もう決まっちゃったんです」
漫画でしか見たことない展開が、目の前でまさか起きるなんて。そこには、自分ごとのはずなのに、なぜか他人事のように俯瞰している私がいる。
社長室を出るなり、私はフラフラとした足取りで職場へ戻る。先輩には「明日から、会社来れなくなりました」と報告すると、「そっか……」と言って優しく宥めてくれた。
職場には私の他に、10歳ほど年上の先輩が2人いる。2人とも大変可愛がってくれたし、人間関係も上手く行っていた。まさか、自分がクビになるとは。
「入社して直ぐの頃、みくさん会社にジーパン履いてきたでしょ?」
「はい。社長が、何着てもいいよって言ったから」
「うーん。何着てもいいとは言ったかもしれないけれど。流石に、ジーパンはないんじゃないかな。社長が『いくらなんでも、あの格好はないんじゃないか』とぼやいてたから」
先輩は穏やかな口調で、私にそう諭した。まさか私がクビになった原因、ジーパンなの?
確か、社長からは、入社する前に「うちは印刷会社だし、作業もするからどんな格好でもいいよ」と言われていたはず。
その言葉を鵜呑みにして、本当にうっすら七色のカラーが施されたパンタロンタイプのジーパンを履いてきた私がバカだった。ジェーン・バーキンに憧れて、ラフでオシャレなジーパン選んでる場合じゃなかった。
そもそも私、海外セレブじゃないし。それに会社がある場所は、あたり一面田んぼだらけだというのに。チャリ通勤の私は一体、何を勘違いしていたのだろうか。
世の中には、適材適所。TPOという言葉がある。その場に合わせた振る舞いを取ること。それが身を守るのだと。
新卒入社なら、せめて一年は大人しくしておくべきだったと先輩は言う。なら、最初に教えて欲しかったけれども。
かつての私は、海外や日本のトレンディドラマに憧れ、颯爽したスタイルで闊歩するキャリアウーマンに想いを馳せていた。
自分もいつか、かっこいいOLになるんだ。そして職場で素敵な出会いを経験して、結婚するのだと。一姫ニ太郎をもうけて、夫のローンでマイホームも購入するんだ。
私はジーパンひとつで、全てを粉々にしてしまったのだ。
◇
私は「地元であれば、就職に有利」と呼ばれる地方の公立短大へ進学した。
「その学校へ行けば、就職に困ることはない。公務員になる人も多いみたいだよ」
その噂を信じて入社したけど、世は就職氷河期。就職活動も奮闘したが、60〜70社ほど落ちた。
集団面接の際には、顔が良くてハキハキと話す子にばかり質問が集中。私のところには、どんなに待っても質問すらされない。
ようやく「我が社を受けた理由は?」と聞かれて回答しても「あっ、そう」で終わる。その時点で、私は面接に落ちて隣の子が受かるのだろうと悟った。
次から次へと面接に落ちる中で、友達の内定報告が次々と耳に届く。「良かったね」と伝えるたびに、私は動揺した。私だけ、何も決まってない。もしかしたら新卒のカード使えないかもしれない。
最後の砦として、私は学校推薦を活用することにした。学校推薦を出せば、最後。就職したら、絶対にその会社へ行かなければならないという決まりがある。
本来なら、自分が絶対に行きたいと思える会社で使いたかった。でも、その時にはすでに遅し。
2月だった。あと2ヶ月で、私の同級生たちはみんな新卒入社で社会人となる。周りに遅れを取ってはいけない。新卒カードが使えなくなると、私はもう就職できないかもしれないのだ。
残っていたのは、地方にある小さな印刷会社のみ。第一志望でもないし、行こうとすら考えてもいなかった。けれど、もうここに頼るしかないと思った。
きっとその時点で、私は会社のことをどこかで甘く見ていたのだろう。私の本当に行きたい会社じゃなかったのだと。
けれど、どこにも行けなかったのであれば。せめて、自分を受け入れてくれた会社に対し、誠心誠意を込めるべきではなかったのではないだろうか。そして、その会社に入社した時点で。自分にとってはようやく辿り着いた「居場所」だったのではないかと。
あの頃の私は、壮大な勘違いをしていた。せっかく、自分を受け入れてくれた居場所と出会えたのに。私ときたら「なんで私、ここで働いているんだろう」と思ってしまった。
友達はみんな大手に入社して、自分はなぜ田んぼの真ん中で色塗りをしているんだろうと。すべて自分で決めたことなのに。その道に対して、責任を取ろうとしていなかった。
きっとその心を、社長は見透かしていたんじゃないだろうか。会社を。仕事を舐めていたのだ。自分が今、自営業になりふと思う。一緒に働くなら、やる気のない人より共に奔走してくれる人と仕事したい。少なくとも、あの頃の自分みたいな人とは働きたくない。
親友に会社をクビになったことを報告すると「なぜ、『頑張りますので、もう一度働かせてください』が言えないの?」と指摘された。
あの時は生意気だったので、なぜ私が遜らないといけないのかと反論した記憶がある。そんな私に対し、親友は少し呆れ顔でやれやれと溜息をつく。
20年経った今ならわかる。会社で働くというのは、そういうことなのだと。会社の利益を上げるために、精一杯尽くす。その精神がなければ、そこで働けないのである。
だから私は、クビになったのだ。
◇
会社をクビになったその日。私は家につくなり、大号泣した。母もショックで放心していた気がする。
「だからあなたには、就職なんて無理だったのよ」
母は項垂れる私に、追い打ちをかけるように言った。多分、母も悔しくて悔しくて。本当は「残念だったね」と言いたかったかもしれないけれど。自分ごと過ぎてしまい、自分を責めちゃったんだと。だから、そんな言葉しかかけられなかったんだと思う。
数日後、母はパソコン教室のチラシを私の前に出して「あんた、これ行ってきたら」とだけ伝えた。パソコン教室の受講料は、確か30万円前後だった記憶がある。
クビになった会社からは、初任給プラス一ヶ月分の給料をもらっていた。少ししか働いていなかったので、退職金はゼロ。会社からもらったお金をほぼ全て投資し、私はパソコン教室へ通い始めることになった。
パソコン教室の入会には、母も立ち会ってくれた。隣で心配そうに眺める母の姿は、今でもはっきり覚えている。母も娘のために、必死だったのだ。
◇
当時は実家暮らしとはいえ、他にお金も必要と思い100均のオープニングスタッフとして働き始めた。
新卒の会社をクビになり、100均でパート勤務を始める。最初のうちは、周りの目が怖かった。100均で働き始めた頃、友達が何人か遊びに来てくれた。嬉しいけれど、エプロン姿を見られたくないという複雑な気持ちもあった。
100均ではレジ打ち、商品発注、棚への品出しなどを行う。棚は一人一人用意されており、商品が足りなくなったり、売れそうなものがあれば自ら発注を行う。棚には、自由にポップを作っても良いというルールもあった。
最初は、生きるために仕方なく働いていた。けれど、次第に棚へ商品を並べるのが楽しくなっていく。自分が発注した商品が売れる。レジ打ちの後に商品の袋詰めを手伝う。その度にお客さんから喜んでもらえて、嬉しかった。
働くって、誰かのためなんだ。それを気づかせてくれたのが、私にとって100均だったのかもしれない。
それから半年後、私は建設会社の事務員として転職する。本来なら中途採用だが、新卒から半年しか経っていなかったこともあり「新卒待遇」で特別に入れてもらえた。
それから17年間働き続けて退職し、今はフリーランスのライターとして活動している。パソコン教室に通っていたお陰で、キーボードの早打ちが得意になった。その特技が、フリーランスになった今、ようやく生かされている。
リストラから転職までの間に、私は本当の意味で「働く」ための修行をしていたのかも。もし、あのまま中途採用で入社した会社に新卒で入っていたら。同じような目に遭っていたのかも。
人生は生きていると、想定外の出来事に出くわすことがある。その経験を活かすも殺すも、結局は自分次第。
その時の辛い経験も、のちのち「経験して良かった」と思えるかもしれない。ガムシャラに取り組んでいたことが、今後何かの拍子に役に立つ日も訪れるかも。
希望を忘れないでいれば、いつか道が照らされると信じて。私は今、フリーランスのライターとして働いている。AIの進化に伴い、これから先もどうなるかはわからない。想定していない出来事が、これから先訪れることもあるだろう。
けれど、あの時挫折を経験してきた私なら、きっとどんなことが起きても乗り越えられそうな気がしている。