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[1分小説] 藍|#灼熱の悲しみに悶絶して
沈痛な面持ちで、
杏奈はホームに来た電車に飛び乗った。
行先はどこでもいい。海が見える所なら―。
・
都内の薄汚れた雑居ビルの一角で、杏奈は肩を震わせて声を荒げていた。
「どういうこと?」
還暦間近のベテラン店長に代わり、他店舗と掛け持ちで店長補佐をする若い男性スタッフに、
彼女は怒りのすべてを注いでいた。
「宮本さん、あの女に指名替えしてたの?
聞いてないわそんなの!」
杏奈が今の店舗でデリヘル嬢をして、3年が経つ。
土曜日は安定的に動きがない。
弛みきった時間が、事務所 兼 待機室の中を流れていた。
空気を変えたのは一本の電話だった。
「はい、△△倶楽部でございます」
デスクの男性スタッフが電話を受けているのを、
杏奈はソファでうとうとながらしながら聞いていた。
「...ええ、あいにく。申し訳ありません」
『誰だろう...』
土曜日は、そもそも依頼が少ない。
スタッフの口ぶりから、指名のキャストがいなかったことが窺える。土曜日に指名を入れてくる顧客は滅多にいないのだけれど―。
その疑念が、睡魔を凌いだ。
「ねぇ、今の、宮本さんじゃない?」
ソファから身を起こしながら、杏奈はカマをかけて訊ねた。
「あ、そうです。よく分かり...」
男性スタッフはそこで言葉を切った。
「しまった」。その瞬間、彼の硬直した表情がそう語った。
彼女がすべてを悟るまで、時間はかからなかった。
痛みが、怒りとなって全身に広がった。
「宮本さんなんでしょ?
誰を指名したの、ねぇいつからよ?」
杏奈の言葉は止まらない。
「この2年間、ずっと私の担当だったじゃない!
どんな我儘だって聞いてきたのに...」
・
気づいた時には、店を飛び出していた。
外は午前中から続く雨模様だった。
待機場所に傘を忘れたことに意識が及んだが、彼女は構わなかった。
濡れながら駅まで走って、赤い電車に飛び乗った。
下り電車だった。
―これなら、海のある場所に行ける。
固いソファで4時間も寝ていたから、体が痛い。
車内は空いていた。車両端の席に腰掛けると、
杏奈は体から力を抜いた。
「宮本さん」は、彼女の一番のお気に入りの顧客だった。
三回りほど年の離れた彼を、彼女は自分の持ちえない父親のように慕っていた。
彼の前では、なぜか安心できたのだ。
しかし、丸2年近く指名を取ってきた彼が、3か月前から別のキャストに指名替えをしていたことを、
ついさっき知ってしまった。
裏切られた―。そう思ったし、なにより、
数少ない自分の居場所を失った気がした―。
濃い藍色の海が見たい。
ただ、そう思った。
頼れる人の少ない彼女の人生で、いつも寄り添ってくれたのは、夕闇に溶ける海だけだった。
・
どれくらい眠っていたのだろう。
目を覚ますと、電車はどこかの駅で、乗り継ぎの待ち合わせをしているところだった。
杏奈は駅名表示に目をやると、電車を降りた。
もう日が暮れ始めている。
ここはたしか、海から近い駅だった気がする。
重い体をひきずるようにして、足を前へと進めた。駅の小さな改札を出る。
―と、ぼんやりとしていたのか、
同い年くらいの女の子とぶつかった。
しかし、謝るより先に杏奈の口をついて出たのは
「ねぇ、海はどこ?」だった。
そんな突拍子もない問いにも関わらず、
けれども相手の思いつめた表情に
傷つき疲れ果てているはずの杏奈の方が、たじろいだ。
その女の子は、静かに泣いていた。
「ちょっと、どうしたのよ?」
・
・
・
出会いは、男と女の専売特許ではない。
深みを増す藍色を背に立つ彼女たちの出会いの続きは、
また別の機会に―。