東本願寺_三重教区 公式note
真宗大谷派(東本願寺)三重教区慶讃事業広報紙「慶讃ニュース-ツナがる211-」のコラムをお届けします。「211って何だ?」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。京都の東本願寺を本山とする真宗大谷派のお寺は三重県に211ヵ寺あります。1ヵ寺1ヵ寺のお寺には、お一人おひとりの僧侶と門徒のツナがりがあります。その211ヵ寺の僧侶と門徒がツナがる慶讃事業によって、これまでお寺とご縁のなかったお一人とも新たにツナがるイメージを表現しました。。バラバラだと思っていたことが実はツナがってきたこと、それが何によってツナがっているのか、そんないのちのツナがりを共有すべく、慶讃事業の情報をお届けしていきたいと思います。
創刊号にあたり、員辨暁委員長に今の思いや三重教区内外の方々に向けた メッセージをお伺いしました。 ◾本日はよろしくお願いいたします。 よろしくお願いします。 ◾先日、寺町通り商店街でアンケートを取った結果、77人中2人しか「慶 讃」の字を読める人がいませんでした。門徒さんに広めていくためには難しそうですね。 そうですね。まずは「慶讃(きょうさん)」の字にフリガナをふってどなたでも読んでいただけることから始めています。 ◾慶讃法要とはどういう法要なのですか。 ひと言で
子どもたちへ伝えるために 三重組の一部地域では、十ヵ寺の持ち回りで年十回、『阿弥陀経』を読誦し、「御消息」を拝読する「六日講」が、一八二六(文政九)年からおよそ二百年にわたり受け継がれている。そのようなお講の根付いた地域に乘得寺はある。 乘得寺では、月に一度発行する寺報を総代の諸岡克博さんが作成している。寺報は住職の栗田顯さんの祖父である先代住職の代から、何十年も中断していたという。しかし二〇二一年の住職継職時の総代会にて、寺離れ対策と新しい住職のことを知って貰うために
今回は、四年前に亡くなられた女優の樹木希林さんについてお話ししたいと思います。と申しましても、私が特に希林さんのことをよく知っていたわけではなく、ただ、希林さんが亡くなられた直後に出版された本を読んで感銘を受け、私なりに考えたことをお話させて頂きたいと思います。 その本は、希林さんが亡くなられた約三カ月後に文藝春秋社から出版された新書版の『一切なりゆき ~樹木希林のことば~』です。この本は希林さんが書かれた本ではなく、生前、雑誌のインタビューなどで掲載された文章を、編集
あるおばあちゃんがこんなことを語られました。「人間というものは落ち目になるとひがむもんじゃ、ひがむと言葉が通じなくなる……」私たちの比べるという心のあり方から考えていきます。
私はお寺に嫁いだものの、坊守とは名ばかりでお寺の業務一切を義父母に任せ、仕事と生活に追われる日々を送っておりました。しかし、訳あって僧侶になる為の大谷派教師資格を取得することになり、三年前に在家出身の私は、もちろん仏教の基礎知識ゼロ、やる気ゼロの状態で資格取得へと一歩踏み出しました。今思うとよくこんな無茶をしたものだと冷や汗がでます。 私は五十歳を過ぎ、やや人生に何となく生きづらさを感じておりました。そのタイミングでの資格取得により、教えに出遇うことができ、そして多くの
皆さんには決まった待ち合わせ場所はありますか?
2021年9月28日に京都にある本山・真宗本廟(東本願寺)の御影堂の親鸞聖人の前で住職の任命を受けてまいりました。10月には、いなべ市藤原町古田の善行寺の本堂にてご門徒さんや近隣の住職方と共に「住職就任法要」を勤め、住職となるということを確かめ、報告させていただきました。 その際に、ご門徒さん方から「お祝い」をいただきました。これは何人かで集めてくださったものだったのですが、その集まった金額が問題になりました。数字の頭が「四」になる金額になったそうです。そのことで中心に
「はやく人間になりたい」という有名なアニメのセリフ。ふと、考えると自分自身のことを人間だとどこで確かめることができるのでしょうか。人間ということを丁寧に考えていきます。
私が今、聞法(もんぽう)させていただけるようになったきっかけをお話いたします。 若い頃はお内仏に手を合わせる、ましてや聞法をすることなど全くありませんでした。仕事に頑張っていれば、安定した家庭を築けば、との思いでした。私が30代の頃、母親にお内仏に手を合わせるように、お内仏にお参りしてから出勤するようにと時々言われましたが「フン」と聞き流していました。そこで母親は私に手紙でお内仏にお参りするようにと、改めて言ってくれたのです。それでもまたしても気に止めなかったのです。手紙を
新年の挨拶
紅葉が散っていく場所から、人間という相を考えていきます。本当の自分の姿とはどんな自分なのでしょうか。
ある生鮮食品店の店主の突然の死。……その方は何を願っていたのだろうか。何を残してくれたのだろうか。
明年の春、本山において「宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年、立教開宗八百年慶讃法要」が勤められます。それに先立って、十月八日に三重教区におけるお待ち受け大会を、「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」というテーマのもとに開催されました。私自身、開催に関わってきたものとして、このテーマは、私に何を問いかけているのか考えてみたいと思います。 改めて、自分の人生を振り返った時、世間に埋没していることにも気づかずに、「自分のことは自分でよく分かっている」、または、
先日お参りにお邪魔したお家でお茶を出していただいたら、湯呑をのせる茶託(ちゃたく)と高坏(たかつき)がさかさまになっていた。思わず「あ、これさかさま!UFOみたいになってます」と言うとみんな笑いながら「反対にしても使えるから間違うよね」という声も。なるほど!確かにそうだ。調べると、高坏に関しては平安時代逆さにして灯台(灯り)として使用していたことが「枕草子」にも描かれている(『照明学会誌第八三巻』)。高坏の脚の高さは、神仏への敬いの表れだそうだが、それをさかさまにして日用品
2023年11月のテレフォン法話のアーカイブ配信です。ある運動会での光景。そこでは誰が一番喜んでいたのでしょうか。喜びとは一体どういうことなのでしょうか。
親鸞聖人が京都で亡くなられましたとき、そばには娘である覚信尼さまが付き添っておられたと言われています。どのような事情があってか、妻の恵信尼さまは新潟辺に居住されていたのです。娘さんからお手紙は残っていませんが、恵信尼さまから覚信尼さまへのお手紙が残されています。 そのお手紙には「昨年の12月1日のお手紙、確かに拝見しました。親鸞さまがご往生されたことは、今更申し上げることでもありません」という言葉から始まっています。これは、「今更申上げることでもない」とありますから、恐