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われらの都合

 2021年9月28日に京都にある本山・真宗本廟(東本願寺)の御影堂の親鸞聖人の前で住職の任命を受けてまいりました。10月には、いなべ市藤原町古田の善行寺の本堂にてご門徒さんや近隣の住職方と共に「住職就任法要」を勤め、住職となるということを確かめ、報告させていただきました。

 その際に、ご門徒さん方から「お祝い」をいただきました。これは何人かで集めてくださったものだったのですが、その集まった金額が問題になりました。数字の頭が「四」になる金額になったそうです。そのことで中心になって集めてくださった方から相談を受けました。「世間では「四」は縁起の悪い数字やからあかんのや」と言われるのです。私は「五」にしてもらえれば金額が増えるのでありがたいのですが、「世間では」とか「悪い数字やから」ということにひっかかりました。なぜ悪い数字なのか。それは「四」は音読みで「シ」と読むので、「死」を連想します。「死」は誰でも嫌なことですから、「お祝い」には「四」がつかない数字にするそうです。

 このことは「世間」では大切とされている重要なことなのだそうです。しかし、これは私と私に関わる身近な人が嫌な目に遭わないように、死を遠ざけるよう、不幸が遠ざかるようにしたいという思いから来ているのでしょう。もちろん、不幸はいやですし、死もいやなことです。しかし、どれだけ遠ざけようとしても死は免れることはできません。幸不幸もこちらの思い通りにはなりません。受け入れることができないからといって、それを連想させる数字や言葉を忌み嫌い、さけることを当然のことだと、堂々としてよいものだろうかと考えました。

 また、「世間では」と言われましたが、「住職」にならせていただいた「お祝い」ということでしたので、これは「お寺」でのことです。しかもこのお寺はお念仏の教え、親鸞聖人の教えを聞いていく「浄土真宗のお寺」なのです。昔から「門徒 物忌み知らず(忌むことを必要としない)」と言い慣わされてきていることは何を教えているのでしょうか。
 今回の問題からは、どこまでも自分にとっての良し悪しという都合でしか選べない、私たちの姿が知らされてくるように思います。自分と自分の周りだけの幸せを願い、不幸をさけていく。私たちはそのような「世間」という価値を本尊にしてしか生きることができないのでしょうか。
 ある先達が言われた言葉ですが、

神仏のおかげ、ご先祖のおかげ、それで今日一日無事こうして暮らしており、それを感謝してお念仏を申しておりますと言われるが、親鸞聖人はそんなお念仏をすすめられたことはありません。それは自分だけの幸せを喜んで感謝しておるんでしょう。どこにも同朋という世界が開かんのです。自分だけの世界の中に閉じこもって、自分だけのことを喜んでいるんです。

(『真宗門徒』和田稠著 東本願寺出版)

と。また、「目の前で悲しんでいる人の姿が見えなくなってしまう」のだとも言われます。
 住職にならせていただき、この浄土真宗のお寺で、本当に尊いことは何なのか、何を宗にして生きるのかを皆さまと共にたずねていかねばならないと思った出来事でした。

※本内容は2022年2月テレフォン法話で配信された内容です。
伊藤 康(いとう・やすし)/いなべ市・善行寺住職


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