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平和を求めて

 私はお寺に嫁いだものの、坊守とは名ばかりでお寺の業務一切を義父母に任せ、仕事と生活に追われる日々を送っておりました。しかし、訳あって僧侶になる為の大谷派教師資格を取得することになり、三年前に在家出身の私は、もちろん仏教の基礎知識ゼロ、やる気ゼロの状態で資格取得へと一歩踏み出しました。今思うとよくこんな無茶をしたものだと冷や汗がでます。

 私は五十歳を過ぎ、やや人生に何となく生きづらさを感じておりました。そのタイミングでの資格取得により、教えに出遇うことができ、そして多くの人々に出遇えたことが、今思えば私の人生に於いての至宝となったことは言うまでもありません。また、付け加えるとするならば“人を見る”といったことが、今までとは違った位置や角度から見ることを教えて頂いたように思います。

 現在、未だすっきりとしないコロナ禍ではありますが、ワクチンという希望の光が差し込み、以前の平和な生活にいつ戻れるかと期待と希望を持ちながら皆さんは必死に生きていらっしゃいます。そんな中、新聞に掲載されていた「平和」とは何なのか。という茶道裏千家家元の千(せん) 玄室(げんしつ)さんのお言葉に心をうたれたので私は咄嗟にメモしていました。それをご紹介させて頂きます。

口だけで「平和、平和」というプラカードを掲げて行進しても平和はこない。平和という言葉を使う前に、自分たちの周囲を見てほしい。人は、心の中に田んぼを与えられています。そこに何を植え、どう耕し、成長させるかを考えることが大事。「田」という字に「心」という字をつけてみてください。「思」。それは思想です。親から与えられた心という田んぼをどう育てるかを考えてほしい。自分たちだけでなく、どれだけ他の人の為に生きる心を持つか。それが生きることの要ではないでしょうか。

千 玄室(茶道裏千家家元)

と、分かりやすい言葉でお釈迦さまの教え「自利(じり)利他(りた)円満(えんまん)」のお心を仰っててくださいました。「自利」とは自ら利益(りやく)を得ること。「利他」とは他人に利益(りやく)を与えることで、つまり相手の幸せを思いやることが、自分の幸せになるということ。自分さえ良ければいいという利己的な心では決して幸せにはなれないということを千 玄室さんは訴えかけてくださったのです。
 親鸞聖人の生き様がそうであるように、多くの先人も大切な言葉を遺してくださっています。
 宮沢賢治の

世界ぜんたいが幸福(しあわせ)にならないうちは個人の幸福(しあわせ)はありえない

という優しいながらも力強いお言葉もあります。
 振り返ってみると今もなお、この自利利他の精神をもって戦ってくださっている医療従事者の皆さん、そして感染症拡大当初には、マスク不足に喘ぐ人の為に、自分のお年玉で布を買い手作りのマスクを寄付した子ども達、そして自己防衛だけでなく、人に感染させないようにとマスクを装着し、手指消毒、外出自粛などを徹底されている皆さんには本当に自ずと頭が下がります。
 しかし一方では一昨年、SNSのデマによりトイレットペーパーの争奪戦がありました。そしてマスクと消毒用アルコール不足に陥り、マスクを職場から盗んで高額で転売したり、ドラッグストアの店員さんに「つけているマスクがあるならよこせっ」などと怒鳴りつけたり、医療従事者への誹謗中傷、罹患者への差別、さらに自粛警察なるものまで登場しました。これらの行いは、自分さえ良い思いをすればよい、自分さえ守ることができれば、他人なんてどうなってもいいという「餓鬼道に生まれる我利我利亡者(金の亡者)」であり、「愚癡(ぐち)」という道理を知らずに自分の思いを絶対化して生きる畜生であると教えられています。

「無慙愧」は名づけて「人」とせず、名づけて「畜生」とす。

『真宗聖典』第二版  293ページ

と、ここで親鸞聖人は、罪の痛みを感じず、罪を犯したことをも恥ずかしいと思わない無慙愧は「人」ではなく「畜生」であるとおっしゃっています。つまり外見は人のようだけれども中身は人ではないということです。
 最後に「人を見る目」の角度を変えて、自分自身に向けてみましょう。どうでしょうか。己自身は完全な「人」と胸を張って言い切れますか。私自身もどうやら「人」にはなりきれてはいないようです。これから先、自身の愚かさや至らなさを自覚し、仏法聴聞の歩みを続け、一歩一歩前に進んで行きたいと思っています。

※本内容は2022年2月テレフォン法話で配信された内容です。
川瀬 逸美 (かわせ・いつみ)/桑名市・來遊寺住職


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