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じぶんフリスビー
アメリカで懐かしいこと(ところ)。
それはディズニーランドでも、ハリウッドでも、ベニスビーチでもない。特定の目的地というより、「フリーウェイに乗って、どこへでもなく車を飛ばす」ことだった。
何がいいのかって、あれは説明に難しい。
たまらなく懐かしい。
遮るものが無い、360度パノラマを走るフリーウェイをひたすら一直線に飛ばし、日が暮れそうになったら夕焼けの中を引き返してくる。
お弁当の手作りサンドイッチ持って、
お気に入りの音楽を大音量でかけ、誰にも気兼ねすることなく下手な歌を大声で歌って、
私と私の小さなホンダは戻ってきた。
腹の底からすっきりした顔して。
かかったのは当時は安かったガソリン代だけ。
何と安上がり、何という贅沢。
美味しいものを食べに行くでもない、
観光名所巡りをするでもない、
美しい景色が目当てでもない。
私の身体は小さなホンダを通して、広がる大地の形をひたすらどこまでもなぞっていた。
あの圧倒的な広さに、私は救われていたのだと思う。
ああ、そして、あの音楽。
大空の屋根の下、小さな車(スピーカー)から放たれ、地球というアンプを揺らして身体に伝わってくる音楽は狭い室内で聞くいつもの音楽とはまるで別物だった。
採れたての果物から搾りたてのジュースを飲むように、私は全身で音楽を飲み干していた。全身マッサージをされていた。
あれはなんだったのだろう。
言葉で言い換えることができない感覚。
目の前を塞ぐ「壁」が無いというのは、それくらい威力があった。
フリーウェイの向こうになだらかに広がる山や丘陵にフリスビーを飛ばすように、私は私を飛ばしていたのだと思う。
目に見えないフリスビーは、
San Gabriel MountainやらGreen Valleyやら、
あちこちの山々に反射し、ぴょんぴょん思う存分1日飛び回って、戻ってきた私の両手両足は、手の指、足の指、1本1本まで気持ち良く伸びていた。
四方を狭い壁に囲まれて暮らしている内に退化してしまったけれど、コウモリのエコーロケーション(超音波)じゃないけれど、人間にも本来似たような空間認知感覚、あったのかな。
もしかして人(の魂)は、目に見えない入れ物を持っている?来る日も来る日も目の前の「締切りの壁」ばかり見つめていると、手も足もちっちゃく萎縮して「切なく」「生真面目に」なるのかな。
そう言えば
「近くのものばかり見続けていると近視になる」って、「遠くのものを見ている大平原の住人は目が良い」って、聞いたことあるけれど。
それは目に限ったことでは無いのかな。
カラダが心の入れ物だとすると、
時々は出してあげて。
たまには「じぶんフリスビー」離してあげて。
これ、私が私に言っていること。