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同時通訳脳

ちゃんとした会社のちゃんとした通訳をやったことがあった。無謀にも、カリフォルニアの自動車会社で技術部門の同時通訳。

自分が採用責任者だったら、自分は絶対に雇わないと断言できるくらい自信の無い分野だったが、短期でまとまった収入になったので、えいやっと飛び込んだ。

初日から後悔した。
専門技術用語がわからない。
$数億ドルの投資が左右されると言われる重要会議。「偉い人達」と「技術者達」の間に座らされた「通訳」の私に、いっせいに両者の目が注がれる。

会話をつなげない。どうしよう。
消えてしまいたい。

「相手は、なんて言ってるんだ、えっ?」
当てずっぽうを言うわけにもいかない。

口の中はからっからに乾くが、言葉が出ない。
目が泳ぐが、てん、てん、てん、、
着地点がみつけられない。
ついには天井を見上げたまま凍りついてしまう、私はとんでもない通訳者だった。

こんなことを何度もやった私を首にしなかった会社はよっぽど太っ腹だったと思うが、それでも何とか契約期間までは勤め上げた。

短い間だったが、興味深かったのは、専門用語は慣れるということ。何度も繰り返す内に、ボキャブラリーの引き出しが増えていく。文章のパターンも、会話進行の事例集も頭の中にできていく。(まさしくAI/人工知能的処理のしかた)そうなると、脳内のシナプス(回路)は軽快につながり出す。通訳の速度も質も少しずつレベルアップしていく。

実際、2、3ヶ月過ぎて脳のAI化が進行してきた頃(当時、AIは一般的ではなかったが)
自分の脳のある一部が盛り上がってきているのではないかと、指で触ってみたくらい。
頭の皮が破れて「通訳筋」がムキムキ飛び出してくる、あの超人ハルクのイメージだ。

もうひとつ、同時通訳体験で驚いたことがあった。当然のことだが、同時通訳というもの、
相手が喋り終わるのを悠長に待っていては間に合わない。

相手が喋っている間に、自分(通訳者)の声で通訳をつけていかなければならない。その結果、通訳している自分(通訳者)の声で遮られ、相手の声が聞こえなくなる。相手が何を言っているのか、聞こえなくなってしまうのである。

これはまずい。

ということで、
ある程度、相手の話の行方を想像していないと、ついていけなくなる。これまでの話の流れ、言葉遣い、表情、仕草などなどから、話の行方を予想する必要が出てくる。

もちろん、「読み」が外れることだってある。
その場合は、爆速で修正をかけなければならない。相手が話し終える前に。これもシナプスの経験値がモノを言う作業だと思い知った。

そう。
同時通訳は、相手の思考の先読みだった。
これは、専門分野に集中すること、通訳の知見が溜まることである程度、精度を上げることができる。先輩通訳者の見事な手腕を見てため息が出た。

私はどうだったか。

ある朝目が覚めたら、顎が大きく腫れていた。
慣れない分野で、桁違い($数億ドル級)の緊張が続き、歯を食いしばり続けたせいで、嚢が歯茎を突き破っていた。通訳脳が超人ハルク級に腫れ上がって脳を突き破る前に。

半年弱の不出来な通訳でいただいた給料は、ほぼ全額、化膿した歯茎の治療代に消えた。
笑うに笑えない。
同時通訳は一生に一度の貴重な体験だった。

人生、自分の能力に見合ったことをやろう。
身を持って体験したはずなのに、、

あああ

気がついたらまたやっている。何年経っても。
もう奥歯は1本しか残っていない。

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