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聖武天皇 et le Grand Bouddha

 首皇子(おびとおうじ)は、夢の中を歩いていた。
 目の前を金人が歩いている。歩く道は水晶のように透明で、野は七色に輝く。やがて、星空が開けた場所に出た。
 「……これは?」
 黄金の巨人が座っていた。結跏趺坐だ。静かに目を瞑っている。口元に涼し気な笑みさえ浮かべている。多重結界のような曼荼羅が、背中から広がる。展開する。首皇子は思わず、金人を見た。これは一体何だ?
 「大仏です」
 改めて見上げた。これが大仏?でかい。呼吸している。生きている。
 「……なぜこのようなものを私に見せるのですか?」
 「首皇子、あなたは日本史の要です」
 金人は振り返った。薄っすら紫の冠が見えた。
 「……私が要?なぜ?一体何をしろというのですか?」
 「大仏を造りなさい」
 金人がそう言うと、首皇子は驚いた。
 「……大仏を造る?私が?」
 意味が分からない。目の前の大仏は、静かに瞑想している。
 「……一体何のために?」
 「本仏下生のためです」
 曼荼羅が転じて、法輪の形を取る。いつしか大仏の姿が消えて、巨大な黄金の車輪が回転していた。
 よく見ると、車輪のスポークは宝剣だった。この車輪は、完結したシステムであり、武器であり、正義であり、光であり、法でさえあった。
 「頼みましたぞ。菩薩に転じた如来も遣わしますゆえ……」
 夢はそこで破れた。首皇子、15歳の夢だ。
 
 735年、疫病が猖獗(しょうけつ)を極めた。天然痘だ。豌豆瘡(えんどうそう)と言う。文字通り、皮膚に豆状の水痘ができる。痛い。苦しい。死に至る病だ。
 第10次遣唐使が帰還した。唐の玄宗皇帝に会っている。太宰府からから平城京まで、疫病が広がった。彼らがキャリアだった。738年、議政官だった藤原四子が全滅した。
 天平年間の日本の総人口450万、うち150万人が天然痘で死んだ。全人口の1/3だ。
 「……責めは余一人にあり。このままでは、本朝は滅びるか?」
 在位11年、34歳の聖武天皇は呻いた。あまりに人が死に過ぎて、宮中も空席だらけだ。737年6月、とうとう朝廷の政務が停止した。
 あまりの死者数に、行政が崩壊した。国家が、社会が、崩壊寸前だった。前例がない。前代未聞の出来事だった。
 徳がないから、こうなった。何とかしなければならない。もう身がやつれる程考えた。どうすればいい?退位して、死ねばいいのか?死ねば、この罪は許されるのか?
 自分が生きているだけで、自動的に死体の山が積み上がる。これは為政者の罪だ。
 「御仏に御すがりするより他はありません」
 光明皇后は静かに言った。
 すでに奈良法華寺にて、千人風呂を達成済みだ。千人目の垢落しが、ハンセン病患者だったが、口で膿を吸うと、御仏が出た。幼馴染だが、大変な嫁を貰ってしまった。皇后だが、神がかりで、霊感がある。
 「……だがどのような功徳が望ましいのだ?」
 読経したり、写経したり、仏像を彫ったり、寺を建てたり、できる事は全部やった。効果がないと言っては語弊があるが、期待した程ではなかった。威力が小さい。
 「こういう時は、外に出て考えましょう」
 光明皇后は提案した。お供の者は慌てた。感染症が怖い。マスクなどない。平城京はロックダウンならず、ノックダウンしている。皆、死んでいた。骸だ。鴉がつつく。
 「……分かった。とにかく見て回ろう。都の外にも出よう」
 周囲の者は止めたが、聖武天皇は聞かなかった。こうして巡幸が始まった。嫁の霊感を頼る訳ではないが、何か大切な事を忘れているような気がしたからだ。
 740年2月、天皇皇后の一行は、河内国の智識寺に立ち寄った。御本尊にかなり大きな仏像があった。これは法身仏を表現している。仏の本体と言ってもいい。
 「……この毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)は」
 見覚えがあった。
 聖武天皇は在りし日の夢を思い出した。今の今まで忘れていた。
 ――大仏を造りなさい。
 金人が振り返る。紫の冠の君が微笑む。
 金色の大車輪が回り始める。法輪だ。
 ――そうだ。大仏を造ろう。そういう約束をしていた。なぜ忘れていた?
 聖武天皇は夢を思い出して、涙を流した。
 皆、驚いたが、光明皇后は心得ていた。
 「今、行基という僧がいて、民を率いて、寺、橋、堤、何でも作ります」
 聞いた事がある。貴族から弾圧するように頼まれた。僧尼令に反すると。
 朝廷は行基小僧と蔑んだ。だが巷では行基菩薩と呼ばれている。調べた。
布施屋9所、道場・寺院49院、溜池15窪、溝・堀9筋、架橋6所、土建屋か?
菩薩に身をやつした隠れ如来がいると聞いている。呼ばない手はない。
 「……大仏造立に力を貸してくれないか?」
 「喜んで」
 741年、二人は面会した。聖武天皇40歳、行基菩薩73歳だ。
 阿吽の呼吸で決まった。743年、大仏造立の詔が発せられた。近江の紫香楽(しがらき)に場所を選定したが、やたらと不審火が出火して、2年で計画が頓挫した。
 「……紫香楽の新都も止めだ。平城京に戻って再起する」
 聖武天皇は反対派の妨害を案じて、ホームで改めて大仏を造る事にした。
 745年8月22日、天皇皇后自ら衣の袖に土を入れて運び、計画は再開した。
 大仏の開眼式は752年4月9日だが、細部までの完成は771年で、26年もかかった。
 大仏の設計者に、君麻呂という技師長がいた。
 図面を引いて、工事の指揮を執る。奈良の大仏は16m、380トンの金銅仏だ。三笠山の麓に造立する。東大寺も造る。
 まず地面を四角く掘り下げ、底に玉石を敷き、粘土を置いて、棒で突き固めた。さらに砂を蒔き、粘土を置いて、棒で突き固める。版築という唐の基礎工事だ。基礎工事が完成すると、鎮壇具という銅鏡・太刀・玉などが埋められた。祈願だ。
 そして骨柱となる丸柱で、台座の上に原型を造る。その周囲に板や割竹で、大きな籠のような像を造る。縄でしっかりと縛り、上から土をかける。塑像の完成だ。
 この時点で、白い土壁のような大仏像が出来上がる。この後、鋳型を設置する。大仏は八段に分けて、一段毎に盛土を拵えて、銅炉のタタラを立てる。そして百済から伝わった削り中型(なかご)という技法で、蝋を使わず、大仏を鋳造する。
 ポイントは、大仏の塑像と外鋳型(雌型)の間に中型(なかご)という雄型の空間を造り、そこに溶けた銅を流し込んで固め、冷えたら外鋳型と型持を外す事だ。
 外鋳型は二重構造で、厚さ30cm四方2mあり、数十個で大仏を被った。そして内部に、型持という鋳型もあり、厚さ3cm四方12cmで、3,390枚も作った。
 銅の融点は1,083度で、鉄より低いが、炉内の温度を管理して、完璧なタイミングで、銅を流さないと、鋳造に失敗する。温度計がないので、大鋳師の経験で判断する。
 大仏鋳造に消費した金属は銅499トン、錫8.5トン、水銀2.5トン、金0.4トンだ。黄金の肌は、水銀を溶かして混ぜた金アマルガムでコーティングする。350度の熱で、水銀を蒸発させて、付着させるが、毒ガスが出て、作業が困難だった。これは聖武天皇のこだわりで、夢で見た大仏の姿を再現するために必要だった。
 なお大仏の頭部にあるパンチパーマ、螺髻(らけい)の数だが、966個もある。銅を6.3トン使い、造るのに560日もかかった。頭部の細部だけでこれだけの労力だ。
 大仏造立に関わった木材の技師が51,591人、配下の作業者が1,665,711人、金属の技師が372,715人、配下の作業者が514,902人、合計で2,603,638人となる。国民の8割以上が作業に参加した計算になる。文字通り、国家総力戦だった。
 日本史上、この比率で、国を上げて何かを造る事は、前にも後にもない。昭和期の戦艦大和・武蔵の建造は、天平期の大仏造立に比べて、比率が低い。日本史最大の危機は、昭和初期と考える人は多いが、実は天平期の日本こそ、最大の危機だ。
 当時、大仏を建てないと、天然痘で日本人が全滅、もしくは社会が崩壊するのではないか?という恐れがあった。
 だが聖武天皇は、国民に一切強制はしていない。自発的な参加を促しただけで、あとは行基菩薩がPMを張って、人と金を集めた。
 あまり知られていないが、キリスト教の聖人や、仏教の高僧には、PJ推進能力が極めて高い者がいて、不可能な事業を完遂する。行基菩薩もその一人だ。
 752年4月9日、大仏の開眼式が執り行われた。開眼師はインドから来日したボーディセーナが行った。開眼筆は56cm、筆に結んで皆で掴む開眼縷は198mもある。聖武太上天皇、光明皇太后も縄を掴んだ。行基菩薩はすでにいない。81歳で亡くなった。
 ここに一万人の僧が読経する中、東洋一の金銅仏、世界一の大仏が開眼した。奈良仏教クライマックスの瞬間だった。発祥の地インドでも、ここまで大きな信仰の結晶はできていない。極東の島国が、仏教の頂点にして、最先端に立った。
 755年、聖武天皇は、唐僧鑑真の来日を受けて、出家もしている。すでに娘の孝謙天皇に譲位して、太上天皇となっていたが、世間では天皇の出家と捉えられた。
 天皇が仏弟子になり、世界一の大仏が完成する。日本仏教最盛期だ。
 756年、聖武上皇は、光明皇太后に看取られて、亡くなった。54歳だ。二人が子供の頃から遊んだ謎のボードゲームやサイコロが、正倉院に納められた。シルクロード由来の珍品が目を惹くが、二人が生活した思い出の遺品が納められている。
 
 聖武天皇は、再び夢の中を歩いていた。
 いや、皇子の姿をしている。首皇子だ。透明な道を歩いて、七色に輝く野に出た。また星空が見える場所に来た。金人が大仏を見上げていた。近くに僧と貫頭衣の尼僧がいる。女の眼は青かった。
 「見事、やり遂げましたね」
 金人が振り返った。隣の僧は知らない。
 袈裟が墨のように黒い。未来の僧か。
 「……あなたは聖徳太子ではないですか?」
 金人は微笑んだ。眩しい。黄金の光の中、微かに紫の冠が見える。
 「私が先に出て、あなたに繋ぐ。法灯は確かに継承されました」
 パチパチパチ!と青い眼をした若い尼僧が、嬉しそうに手を叩いた。
 「Le Grand Bouddha est magnifique!」(大仏スゴッ!)
 なぜフランス語?まさか仏語だから?
 だが何となく意味は分かった。普遍言語?
 「Eh bien, on va prendre une photo !」(それじゃ、記念写真撮るよ!)
 青い眼をした若い尼僧が、小さな手鏡を取り出して、大仏の前に皇子を立たせた。カシャ!と口で効果音を発して、手鏡の中の像を凍り付かせた。静止画だ。それは聖武天皇et le Grand Bouddhaだった。
 
            『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺056

奈良の大仏 2/3

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