『語りえぬものを語る』ノート
野矢茂樹著
講談社刊
この本は2011年に購入して一度読んでいる。それから11年経って、久しぶりに開いてみた。帯に「哲学の魅惑!『相対主義の言わんとするところはまったく正しい。ただ、それは語られえず、示されている。』とある。
哲学関係の本を読むと、頭の中に新しい回路ができるような気がして、ある種の快感に惹かれて買うことも多いのだが、この本は帯のキャッチに惹かれた。しかし買ったみたはよいが、とても一気に読めるような内容ではなく、およそ半年がかりでようやく読み終えた記憶がある。読み終えてもこの本の内容を理解したとはとてもいえないのだが……。
難しい論文ではなく一見随筆風の筆致で、各章にはつい開いてみようかと思わせるような散文的タイトルが付いているので、ほんとについつい開いて読もうと言う気になる。
例えば、第1章は「猫は後悔するか」をはじめ、「世の中に『絶対』は絶対ないのか」「そんなにたくさんは考えられない」「一寸先は闇か」など、面白そうなタイトルが付けられている。しかしいざ開くと、一見やさしそうな字面に反して、読む速度に理解がついていけず、何度も何度も前のページに戻って読み返すことを繰り返した。それで半年もかかった次第。いまでもこの本はデスクサイドのタワー型平積み式の本棚で存在感を放っている。この本棚には読み返したいと思った本約50冊を背表紙が見える状態で載せている。そこにこの本は11年間置いたままだった。
オーストリア・ウィーン生まれの哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、その代表的著作の『論理哲学論考』の最後に「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」と書いている。この『論理哲学論考』の終着点が著者のこの原稿の出発点だったという。
この本は講談社の『本』という読書人の雑誌を標榜した薄い月刊誌上で、26回にわたって連載された原稿が元になっている。岩波書店の『波』とともに幅広いジャンルを扱った特色ある雑誌であった『本』は、残念ながら2020年の12月号で休刊している。
全部の内容を要約・紹介する素養も力もないが、一つだけ取り上げる。
3章の〔世の中に『絶対』は絶対ないのか〕のはじめに、作家の阿川弘之さんが娘の阿川佐和子さんに語った言葉――「佐和子、世の中には絶対ということはないのだから、『絶対』なんてことばは絶対に使ってはいけないよ。」――を引用して論を進める。この箇所を筆者(私)が会話風に読み解くと、次のようになる。
A:「世の中に、絶対的に正しいものはない」
B:「絶対に?」
A:「そう。絶対に」
B:(それでは君の主張も正しくないことになるよね?)
こういう会話は、「絶対的に正しいものはない」という主張が絶対的に正しいのであれば、自らその主張の反例を示していることになる。
では、次にように答えた場合はどうなるのか。
A:「世の中に、絶対的に正しいものはない」
B:「絶対に?」
A:「絶対というわけじゃないけど……」
B:「じゃあ、絶対的に正しいものもあるかもしれないってこと?」
A:(沈黙)
このような会話では、どう答えても「絶対」を使う限りどう答えても矛盾することになり、これが「相対主義のパラドクス」と呼ばれる問題であると著者は提示する。
このパラドクスにより、〝真理の相対主義〟が矛盾した立場であると批判されるが、ことはそんなに単純な話ではないのである。
真理の相対主義は、「すべての主張はそれがよって立つ立場に相対的に真なのであり、絶対的に真な主張などはありはしない」と考える。
A:「すべての主張は相対的である」
B:「ということはあなたの主張も相対的でしかない(から正しいとは限らない)」
A:「相対主義は私にとっては正しいが、それに反対するあなたにとっては誤りなんだ。しかし、私は相対主義者だから、そんなあなたの立場も認める」
「相対主義の主張自身も相対的である」というのは、「絶対的なものはない。しかし、その主張もまた相対的であるから、絶対的なものもありうるのだ」となり、矛盾している主張のように見えるが、それは〝立場に相対的〟なのであり、ある立場にとっては、〝絶対的なものはない〟が真であり、他の立場にとっては〝絶対的なものはある〟が真となるのである。
かくして、相対主義と絶対主義双方の論理的矛盾をさらけ出しつつ、野矢秀樹は「相対主義それ自身はなんらかの絶対性をもたねばならない。そう結論したい。」と述べる。そして、先に挙げた真理の相対主義、「すべての主張はそれがよって立つ立場に相対的に真なのであり、絶対的に真な主張などはありはしない」はそもそも〝主張〟ではなく、この言葉がいう〝すべての主張〟には含まれないといい、「相対主義は語りえない」とし、相対主義をひとつの主張として語り出してしまうことに相対主義のパラドクスの根があると結論する。
そのことを野矢は、「相対主義の言わんとするところは全く正しい。ただ、それが語られえず、示されている」と表現している。
タイトルに示されているように、随所にウィトゲンシュタインの考え方に異を唱え、私はこう考えているということが提示されており、哲学が単なる言語ゲームではないことがわかる著作であった。