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ありのままと調和の両立~馴染めなくてもそこにいるだけでいい『人望が集まる人の考え方』読後感

ちょっと前に、自分の人望のなさを痛感する出来事があり、少し落ち込んだことがあった。

自分らしくありのままで居たいと思うけれど、世の中との調和も必要で、上手く自己主張出来れば良いけれど、そうはいかずに周りを気にして自分を抑えてしまい、誤解され、いつもその狭間をうろうろしながら両立に苦しんでいるというパターンが私は多い。

その直後に以前から知ってはいたが読んでいなかったこの本を目にしたため、思わず購入に至った。

その件を親友に話すと、笑いながら、それは人望の問題ではない、と冷静に突っ込んでくれ、私の思い込みだったとも分かり、そのまま、人望ってなんだろね、という話になった。

一応、辞書の定義では、人望とは

信頼できる人物として、人々から慕い仰がれること。

デジタル大辞泉

ある人に対して、世間の人が尊敬や信頼や期待の気持を寄せること。人々が慕い仰ぐこと。

精選版 日本国語大辞典

など。英語に直訳すると、popularityらしいので、そのまま人気とか、少し世俗的な意味でウケの良いようなニュアンスも感じる。それよりもrespectも入り混じったイメージが人望に近いのかなと私は思う。

どちらにしろ、人望というのは、その人個人の性質というより、周囲から人が集まり期待されている状況を表すようだ。

一方で、似たような意味かなと思っていた人徳という言葉を調べてみると、

その人の身についている徳。にんとく。

デジタル大辞泉

いまいち分からなかったので、という言葉を見てみると、品性や知性、天性の能力などらしい。よって、人徳というのは、その人物の持つ内面の気高さなど、性格、言動、能力を総合的に表現する言葉のようだ。

調べてみると、私が求めていたものは人望というより人徳なのかなとも思ったが、「人望が集まる人の考え方」というこの本は、どんな関係であれ人間関係を改善したいと思った時に謙虚になり、自分を顧みる機会を与えてくれると感じた。

約70年前に書かれたものなので、ジェンダー観や労働観など今の時代に合わない部分もあるが、全体的には時代に関係のない普遍的な内容。せっかく巡り合った本なので、そこから学び取れたことや感じたことを少しアウトプットしていきたい。


考えてみれば、人望があるとかないとか、の前に、これまでの人生の中である集団の中で人気者でいたこともなければ、馴染めているとさえ感じたことはほとんどない。

高校卒業後、希望の大学へと運良く進学できた私は、いわゆる大学デビューをしてみた。

これまで他者から貼られてきた、ネクラ、おとなしそう、オドオドしてる、まじめのようなThe 陰キャなレッテルを剥がして新しい自分になるチャンスだと思い、まったく違う振る舞いをし始めた。

みんなが好きそうな女の子になってみた。明るく、笑顔で、自分からみんなに話しかけ、いつも誰かと一緒に行動してみた。

そのキャラが受け入れられたのか、毎日6~7人でお昼を食べ、友達の友達(mixi世代の表現w)とも交流し、よく色んな場所へ遊びに行くか、バイトに明け暮れ、ほとんど家では過ごさなかった。

明るく元気に振る舞っていたが、もともと超内向的なので、おそらくそれでも平均の人くらいに見えていただろう。疲れると上手く会話できなくなっていたから、やっぱり社交が下手なのはバレていたかもしれない。

これまでの人生で一番外交的で友達と呼べる人も多い時期であり、調子に乗って新しい自分を楽しんでいたが、本来の自分ではなかった。フェイクな社交性で人と表面的に接していたため、それこそ人望がなかったと思う。


まず、この本の冒頭の部分を読んで、かつての一見友達は多いが人望はない、と自分に感じていたフェイクさや偽物感の正体が分かった。

私は自分の欲求を人に伝えていなかったのである。自己主張できないのだ。

後出しじゃんけんのように、相手の欲求を先に聞き、それに合わせて自分の行動を変えて、その場の平穏をとりあえず保つ、というやり方が常套手段だった。本音を出さないからなにを考えているのか分からず、信用はされないわけだ。infjタイプの人には割と普通によくあるかもしれない。

大勢の人が他人に何かを求めていることを自覚している。だが、その願望を満たすことが利己的だと考え、求めていることを手に入れようとしない人があまりにも多い。自分が成功と幸福を得ると、他人の成功と幸福を奪うことになると思い込んでいるからだ。
ここで断言しよう。
よい人間関係とは、自分が求めているものを手に入れるのと引き換えに、相手が求めているものを与えることだ。
それ以外の関係はうまくいかない。

「人望が集まる人の考え方」レス・ギブリン

自分が求めているものをちゃんと見せないといけない。
ズルい後出しじゃんけんは少しずつやめていきたいと思った。


また、読み進める中でハッとしたのが、

人々は自尊心が満たされないと他人に対して批判的になる

という記述だ。

臨床心理学の研究で、自己中心的な人は自尊心が高すぎるのではなく低すぎることがわかったのだ。
自分との関係がうまくいっているなら、他人との関係もうまくいく。自分との関係がうまくいっておらず、他人との関係もうまくいっていない人は自尊心が欠如しているので、自尊心を取り戻すことが唯一の解決策となる。自分を少し好きになれば、他人のことも少し好きになることができる。いったん自分に対する不満を乗り越えれば、他人に対して批判的でなくなり、寛容の精神を発揮することができる。

「人望が集まる人の考え方」レス・ギブリン

色々な場面でよく聞くような理論であるし、哲学の中にもたびたび出てくる考え方である非常に普遍的なものであるが、あらためて自分を顧みた時に、自分への自信が低下している時ほど、周りのせいにしたくなる気持ちが出てきやすくなったり、壁を作る傾向があるなというパターンにも気づいた。

まずは自分を幸福で満たすことの大切さはヨガの世界でもよく言われることだ。頻繁に言われすぎていて当たり前になっていたが、それが世の中をより良い場所にすることにも繋がっていると、あらためて納得。


また、更に読み進めていくと自分が不安や苛立ちを感じやすい場面を納得する内容があった。

すべての人は自分の重要性を認めてもらいたがっている。

という項目の中で、

すべての人は自分が重要な存在だと感じたがっているだけでなく、自分の重要性を他人に認めてほしいと思っているのだ。
私たちが求めているのは、自分の重要性を他人に満たしてもらうことである。言い換えると、すべての人は自分の価値を確認するのを他人に手伝ってほしいのだ。もし誰からもつまらない人物のように扱われたら、自分の価値を確認できなくなってしまう。
これこそが、「ささいなこと」が人間関係で非常に大きな意味を持つ理由である。

「人望が集まる人の考え方」レス・ギブリン

なんと、現代よく耳にする承認欲求についての記述が約70年前に既に書かれていたのだ。

もちろんこれが書かれた時代にはSNSなどはないので、すべてアナログな世界の中での承認欲求であるが、人間関係という普遍的なテーマの中ではまったく色褪せないヒントを得られたと感じる。

私がふと思い出したのは、待たされることだ。
先日、ある医療機関に予約を入れ、その予約時間の10分前に受付を済ませた。
私の番号が呼ばれたのは予約時間の40分後、受付からは50分後である。
時間を取られるのは病院あるあるだし、仕方ないが、こちらも暇ではないし、そもそも予約を取るだけでとても大変だったのに、なんのための予約?と大切にされていないように感じた。

15年くらい前は病院に行くといちいち待たされて診察時間は5分ほどであるというのに、半日費やすということがよくあったが、最近はもう少し効率が良くなっていてそのようなことはあまり経験しなくなった。

同時間に予約できる人の数を減らすなど、対策は可能であろうし、システムの問題だと思うが、人の時間という貴重な財産(私という1人の人間の価値)をないがしろにしているように感じ、その医療機関に不信感を持ってしまった。医師の対応も微妙だったので、今後はもう行かないと思う。

仕事をしていて、逆にサービスを提供する側の視点から見ても、頻繁にアポに遅れてくる人や、直前にキャンセルする人への信頼はどうしても減っていく。

自分自身に対して、時間に厳しいかもしれない、という自覚はあるが、私の中では、時間=命(人生の長さ=寿命)なので、致し方ないことでの遅刻や予定変更は理解出来るしお互いさまであるが、気軽にスケジュールを乱されると他のことができなくなってしまうし、私の命を大切にされていないように思い、悲しみを感じる。

そして、自分の時間(命)を重要だと思ってもらいたいのと同様、他人の時間(命)も重要であるとあらためて感じたため、仕事の場面において特に緊急性のない事案などで他人に手間を取らせることや、たいして内容のないやり取りで時間を奪わないように気を付けようと思った。

重要感に関してもう少し付け加えると、

相手に重要感を持たせるための3つのルール(抜粋)

①相手を重要な存在とみなす
相手を独自の価値を持つ存在として大切に扱うと、相手の意見や考え方に敬意を払うようになる。その結果、相互の関心、理解、友情にあふれた、より高い次元の人間関係が可能になる。
人々に対して最も強い影響力を持つ人たちは、人々を重要な存在とみなす人たちである。

②相手に注目する
相手にもっと働いてもらいたいなら、その人に注目すると効果的である。それによって相手に重要感を持たせることができる。
なんらかのグループに対しては、1人ひとりの存在を認めることを心がけよう。意外なことに、1人ひとりの重要感を満たすには少しずつ注目するだけで十分である。

相手に対して威張らない
相手に好印象を与えたいなら、自分のすごさをひけらかす必要はない。
相手に感銘を与える最も効果的な方法は、自分が相手に感銘を受けたと伝えることだ。

相手の間違いを指摘する前に、「相手が正しいかどうかは大きな意味を持つだろうか?」と自問しよう。
私たちが他人の間違いを指摘するとき、それはたいてい問題を解決したいからではなく、相手を批判して自分の重要性を高めたいからである。

→注意を与えることの本当の目的は相手をおとしめることではなく、相手を向上させることである。
つまり、相手の気持ちを傷つけることではなく、相手がよりよい仕事をするのを手伝うことだ。

「人望が集まる人の考え方」レス・ギブリン(一部を要約)

なるほど~!!と心が叫んだ。
自分が不安や苛立ちを感じやすい場面では、見事にこれらが行われていない。集団で活動する際に感じやすいが、

①では、意見を語る機会を与えられずに話が進行していく場面、
②では、グループ全体として扱われ、個人が無視される場面、
③では、自慢話を延々と聞かされたり、些末なミスを鬼の首を取ったように指摘されたりする場面、

を思い出した。

逆に自分はそのようなことを他人にしていないか考えると、思い当たることが多少あり、ブーメランを食らい心が痛んだ。次から気を付けよう。


無理に場に馴染もうとして、個性を隠してしまい、主張を抑えてしまうことが多々ある。
職場などでも、私はわざと存在感を薄くして悪目立ちしないように振る舞うことが多い。

まさか、こんな風にネット上で記事を書いて出したり、1人で色んな場所へ旅行する側面などは見せない。

出る杭は打たれるということを実体験で幼いころから痛いほど叩き込まれたからだ。実際、目立つのは苦手だし、注目が集まると居心地悪くなる。

場に馴染まないといけないと思い、空気を読んでその場が求める振る舞いをしてきた。できていないけど。

しかし、自分を出さないようにしてきた結果、逆によく分からない人という扱いになり、余計に馴染めていない気がする。

馴染めていなくてもいいのかなと最近は思う。

年齢を重ねるにつれて無理をしなくなり、集団の中にいても無理に話さずぼーっとして脳を休めることも出来るようになった。ここ数年は周りと同じレベルで馴染むことを完全に諦めて、ただそこにいるだけにしている。

ただそこにいるだけ、ありのままいるだけで無理をせず、力まずゆるんでいれば、気が付けば調和できているかもしれない。

人望なんてなくてもいい。
もしかしたら調和する必要もないのかもしれない。

自分のことも、他人のことも、同じように尊重して、大切にして、せっかく持っている個性やそれぞれの違いを大事にしていきたい。

ゆるく、平和に生きていけたらいい。

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