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第三十九節 素人は戦略を語り、プロは兵站を語る 【大罪人の娘・前編(無料歴史小説) 第参章 武田軍侵攻、策略の章】
武田信玄の立てた西上作戦を実行して越前国[現在の福井県]から近江国[現在の滋賀県]へとなだれ込んだ朝倉軍2万人。
その総大将・朝倉義景には大きな『試練』が待ち受けていた。
家臣の一人が、ある報告を持ってきたからだ。
名前を前波吉継と言う。
内容を聞いた義景は驚き、愕然とした。
「兵糧が尽きた……
だと?
一体、どういうことじゃ?」
「近江国の商人から買った兵糧が全く届かないようで……」
「兵糧が全く届かない!?
そんな馬鹿な!
前に来たときは何の問題もなかったではないか!」
「比叡山焼き討ちの褒美に、織田信長から琵琶湖の西側を与えられた……
明智光秀の『せい』にございます」
「光秀のせいだと?」
「御意。
『わざわざ』湖を埋め立てて築いた坂本城[現在の滋賀県大津市]が原因らしく……」
◇
義景は、家臣の言っていることの意味が分からない。
「吉継よ。
わざわざ湖を埋め立てて築いた坂本城の、一体何が問題なのか?」
「義景様。
坂本城の内側に、巨大な船着き場があることをご存知ですか?」
「巨大な船着き場!?」
「はい。
この巨大な船着き場を……
光秀は、商人たちに自由に使わせていたようです」
「自由に?
銭[お金]も取らずにか?」
「その通りです」
「巨大な船着き場を自由に使えるのなら、船をもっと大きくできる。
運ぶのに2回必要だったモノを1回で運ぶことができ……
効率は一気に上がって、モノを運ぶのに必要な銭[運賃のこと]が『安く』なったはず」
「こうして。
琵琶湖を通る全てのモノが、坂本城内の船着き場を通るようになったとか」
「何っ!?
それはまずいぞ!
琵琶湖を通る全てのモノが、光秀の『監視下』に置かれるではないか!」
「残念なことに。
我らが近江国に入ってから、突如として坂本城の監視の目が厳しくなったらしく……
商人たちはモノの届け先を厳しく詮議されています」
「商人たちが愚かにも船を大きくしたせいで、他の船着き場に泊めることもできない……
光秀め。
まんまと商人どもを出し抜きおった!」
「光秀が築いた坂本城、その『真の目的』は……
琵琶湖を通る全てのモノを掌握することであったのでしょう」
「何ということじゃ!」
◇
比叡山焼き討ちの功績を織田信長から高く評価され、琵琶湖の西側を与えられた明智光秀。
彼はまず坂本の地に巨大な船着き場を築く。
「これは良い!
モノを運ぶのに必要な銭[運賃のこと]が安くなれば、我らの利益は膨らむぞ!」
目先の利益しか見えない商人たちは歓喜の声を上げた。
自らせっせと働き、琵琶湖を通る全てのモノを坂本の地へと集めていく。
これを見届けた光秀は……
陸地の方がはるかに安く済むにも関わらず、『わざわざ』船着き場の周囲の湖を埋め立てて城を築き始めた。
「船着き場を自由に使わせてくれ、しかも盗賊どもから船着き場を守るためにお城まで築いてくれると!
光秀様は何とも有り難い御方じゃ」
頭の中がお花畑の商人たちは、呑気にこんな声を上げていた。
光秀は、船着き場を守る目的で坂本城を築いたのではない。
出入りする船を城壁の上から『監視』し、敵へ兵糧や武器弾薬などを届ける船を見付け次第、火矢などで沈めることを目的に築いたのだ!
こうして近江国の商人たちは……
明智光秀に琵琶湖を使った『水運』を全て掌握されてしまった。
何とも間抜けな話である。
◇
「吉継よ。
陸路を使って運ぶ、『陸運』という手段が残っているではないか」
「……」
「ここは人海戦術で行こう。
一人でも多くの運ぶ者たち[現代の運送事業者のこと]を雇うのじゃ」
「それが……」
「それが、どうした?」
「運ぶ者たちが『集まらない』のです」
「銭[お金]が足りないからか?」
「いえ。
運ぶ者たちも全て掌握されてしまったからです」
「何だと!?
そんなことがあるのか?
銭[お金]さえ渡せば何でも運ぶ連中であろう!」
「木下秀吉という男が、運ぶ者たちを掌握したのだとか」
「木下秀吉?
大した身分でもない男が、どうやって?」
「奴は……
行商人集団の親玉であると聞いたことがございます」
「行商人集団?
あちこち移動しながら物を売り歩く、運ぶ者たちそのものではないか!」
「その通りです」
「もしや……
織田信長のことじゃ。
運ぶ者たちを掌握するために、『わざわざ』行商人出身の秀吉を家臣にして出世させたに違いない」
「何と非常識な!
武士でもない者を家臣にして出世までさせるとは……
さすがに他の家臣たちから反発の声が上がるのでは?」
「吉継よ。
忘れたのか?
信長は、織田家における絶対的な権力者[独裁者のこと]ぞ?
反発の声など聞く耳すら持たんだろう」
◇
当時の行商人は、連雀商人と呼ばれていた。
連雀という道具を背負って荷物を運んでいたからだ。
都会で作られた製品を買って地方へ運んで売り、地方で農産品や原材料を買って帰る。
このように都会と地方を往復輸送していたのである。
秀吉の家臣には……
杉原家次、蜂須賀正勝、前野長康など運ぶ者たちの出身者がやけに多い。
これはまさに、秀吉自身が行商人集団の親玉であったことを表している。
こうして朝倉軍は、現地調達の手段を完全に失った。
◇
「『非常に険しい山道』ではありますが……
国元の越前国[現在の福井県]から持って来るしかないかと」
「すぐに手配を始めよ」
こう命じたものの、届くのに長い『時間』が掛かるのは明らかだ。
加えて2万人もの『人数』である。
兵糧は一気に底をつき、同盟相手の浅井家から融通してもらうとしても、向こうは5千人分しか持っていない。
これでは焼け石に水だろう。
飢える兵士の出現で、軍の体を成さなくなった。
ついに武田信玄へ弱音を吐いた。
「このままでは、朝倉軍は撤退を余儀なくされる。
武田軍には一刻も早く西へ兵を進めて欲しい」
と。
◇
越前国の大名・朝倉義景。
何度か朝倉軍を率いて織田信長を攻め、信長を窮地に陥れたこともある。
それでも決定打を与えることはできなかった。
どの歴史書でも『愚かな人物』として書かれている。
義景は、なぜ決定打を与えられなかったのだろうか?
その理由については……
『精神』に問題があったと描写されることが多い。
「妻子が早死する不幸が続いて気落ちしていた。
政治に関心がなくなった挙げ句、酒や女性に溺れた」
などと。
「戦っている最中に、愛人の女性に会いたくなって撤退した」
こんな芸能スキャンダルのような描写すらある。
内容を面白くして読者を増やしたいのだろうが、明らかに『やり過ぎ』だ。
歴史書を芸能スキャンダルと同レベルに扱うとは……
こんな無知な素人たちが、歴史書を無価値な、読む意味がない書物へと堕としたのだろうか。
そんな程度の理由で、何万人もの人間が非常に険しい山道を行き来するわけがない。
◇
どの歴史書を読んでも、肝心な部分が書かれていない。
『補給』に関する部分である。
越前国[現在の福井県]と近江国[現在の滋賀県]の間が非常に険しい山道であることは、現場に行けば一目瞭然だ。
歴史書の筆者たちは現場すら見ずに書いたのだろうか?
プロだから現場を見る必要はないと思っているのかもしれないが……
素人よりも『質が悪い』。
もしかしたら。
近江国の商人たちから買う前提で書いているのかもしれない。
そうなら是非とも教えて頂きたい。
敵地で、2万人分の食料を確実に届けてもらい続ける方法を。
当時。
近江国のほとんどは織田信長が支配していた。
まさに『敵地』だ。
普通。
敵地の真っ只中で、2万人分の食料を確保し続けることなど不可能に近いが……
芸能スキャンダルの感覚で歴史書を書く筆者たちよりもはるかに実力で上回る朝倉義景は、不可能を可能にすべく懸命に努力していた。
それでも。
光秀と秀吉の策略は、その上を行っていた。
最終的に朝倉軍は撤退へと追い込まれた。
武田信玄の立てた西上作戦は、完全に破綻してしまった。
◇
結論として。
朝倉軍はどうして撤退したのだろうか?
その原因は、越前国[現在の福井県]と近江国[現在の滋賀県]の間の『地形』にあった。
「素人は戦略を語り、プロは兵站[補給のこと]を語る」
有名なビジネス用語である。
織田信長は、兵站を戦争の『主役』と考える戦争のプロであった。
その家臣の明智光秀と木下秀吉も、また同様であった。
一流の『プロ』を3人も相手にせざるを得なかった、朝倉義景。
非常に不幸な人物であったと言えるだろう。
【次節予告 第四十節 戦国乱世を望む、大勢の人々】
信長討伐命令に従って兵を出した、まともな大名は……
既に信長の敵であった朝倉家と浅井家、三好家くらいでした。
その原因は、織田信長がバラ撒いた『異見十七ヶ条』にあったのです。