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第三十一節 敵を欺くには、まず味方から 【大罪人の娘・前編(無料歴史小説) 第参章 武田軍侵攻、策略の章】
「攻撃を始めよ」
父が采配を振った。
本陣の法螺貝が吹き鳴らされ、続いて大地を揺らさんばかりの鬨の声が上がった。
武田菱の旗印を掲げた前衛部隊が一糸乱れず行進する様子は、相手にとって恐怖以外の何物でもない。
「武田信玄は、いずれ……
我が今川家の存亡に関わる重大な脅威となるに違いない!」
凡人[普通の人という意味]の息子・氏真を見る度に疑心暗鬼に陥っていく今川義元が、娘の夫である太郎義信を武田家の当主に据えて今川家の安寧を図りたいと考えたのも至極当然だろう。
最初は歩いていた味方の前衛部隊が、途中から怒涛のごとく敵へ向かって殺到し始めた。
続いて鉄砲の発射音が次々と聞こえて来る。
撃ちまくっているせいか、発射音が全く途切れない。
前衛部隊は竹束という盾を並べて前進しているが……
どれだけの弾丸を浴びているのか、想像も付かない。
◇
この瞬間。
四郎勝頼は、父から有り得ない命令を伝えられた。
「『鶴翼の陣』に陣形を変えよ。
右翼に山県昌景隊、左翼に内藤昌豊隊じゃ」
ついさっき『魚鱗の陣』にしたばかりである。
戦いが始まった瞬間に陣形を変えるなど、あまりに非常識ではないか?
「戦が始まってすぐ陣形を変えるなど、聞いたことがなく……
命令を変えては混乱を招きます。
各隊の大将も疑念を抱くかもしれません」
「息子よ。
そなたならば、わしの『意図』を理解できると思うのだが……」
「意図!?」
◇
勝頼は急いで頭を回転させた。
確かに、何の意図もなしにこんなことをするわけがない。
何といっても父は武田信玄なのだ。
緻密な計算をした上で判断しているはずであった。
最初に大きな疑問を感じたのは……
父が自ら、鉄砲の弾丸と火薬が尽きたとの噂を流したことだ。
『偽りの噂[デマ]』であった。
実際は、徳川家康の居城・浜松城のような鉄砲の弾丸と火薬が大量にある城を攻めるのに足りない程度だ。
「我らは鉄砲の弾丸と火薬を大量に持っている!
浜松城を落とすなど造作もないこと」
普通は、こうだろう。
それどころか……
己の弱みを大げさにして広めるなど、絶対にやらない。
あのとき。
こう考えるべきではなかったか?
「武田軍の鉄砲の弾丸と火薬が尽きたと知った家康は、どう動くか?」
と。
そういうことか!
◇
「父上。
あの瞬間から……
徳川家康を『欺く』策略が始まっていたのでしょう?」
「いつからじゃ?」
「鉄砲の弾丸と火薬が尽きたとの偽りの噂[デマ]を流したときからです」
「よくぞ見抜いたのう。
織田軍の援軍はたった3千人だが、鉄砲の弾丸と火薬を大量に持ってきたと聞く。
浜松城を正面から攻めれば……
我ら武田軍はとてつもない犠牲を払うことになる」
「その通りですが、だからといって浜松城を放置するわけにもいきません。
放置すれば……
家康は一撃離脱戦法という厄介極まりない戦法を使ってきますからな」
「そうじゃ。
行軍中も、休憩中も、睡眠中も、何の前触れもなく狙撃される。
いつ、どこから狙撃されるかも分からず、おちおち寝てもいられない。
戦う前から兵の体力と精神がみるみる削られてしまう」
「家康に一撃離脱戦法を使わせず、いかに短期決戦へと持ち込むか。
父上のお考えは、ここにあったのでしょう?」
「その通りよ」
◇
「整理しますと。
まず父上は……
鉄砲の弾丸と火薬が尽きたとの偽りの噂[デマ]を流された。
徳川家康は、父上が浜松城を正面から攻めることはしないと思ったはず」
「うむ」
「そして。
父上が浜松城を素通りするのを見た家康は……
噂は事実であると確信し、『安心』して出撃した」
「……」
「続いて。
我らが三方ヶ原で布陣して待ち構えていることに驚いたものの、魚鱗の陣を組んでいるのを見て……
家康は己の欲求を抑えられなくなった」
「己の欲求を抑えられなくなった、だと?
どんな欲求を?」
「より大きな戦果を上げたいという欲求です。
一撃離脱戦法よりも『威力』のある、十字砲火戦法を使えば……」
「ん!?
十字砲火の方が威力があると?」
「そもそも。
一撃離脱戦法とは、まともに戦わない戦法ではありませんか」
「……」
「一撃を与えたら、すぐに離脱せねばなりません。
これでは大きな戦果を上げれないのは明白でしょう?
『時間』を掛けて敵を精神的に追い詰めていく戦法なのですから」
「確かにそうじゃ」
「味方の城が次々と陥落していく中で……
一撃離脱戦法という、ごくわずかの勝利を積み重ねていくことには非常な『忍耐』を必要とします」
「……」
「それと比べて十字砲火戦法は、その凄まじい威力によって一瞬で大きな戦果を上げることができます。
どちらが『楽』か考えるまでもありません」
「ははは!
見事ではないか。
わしはこう考えたのじゃ。
『家康が、我らに十字砲火を食らわせる好機を逃すはずがない』
とな」
「しかし。
十字砲火を許すということは、味方の前衛部隊にかなりの『犠牲』を強いることになりますが……」
「止むを得ない犠牲であろう」
◇
勝頼は、父のもう一つの狙いを見抜いた。
「父上。
家康に十字砲火戦法を使わせたのは……
もう一つの狙いがあったのではありませんか?」
「ほう。
その狙いとは?」
「鶴翼の陣に布陣させるためです。
この陣形は、左右の翼の部分に強力な軍勢が置かれます。
徳川軍最強部隊が左右どちらに配置されても……
家康のいる中央から離れることになり、徳川軍は『一つに』なることができません」
「そこまで見抜くとはのう……
数において武田は猫、徳川は鼠じゃ。
『窮鼠、猫を噛む』
こういう例えもある。
万に一つも負けない戦い方をせねばならんからな」
「お見事にございます。
直ちに鶴翼の陣に布陣させて参ります」
勝頼が行動を開始しようとした、その瞬間のことである。
◇
「待て」
父が息子を止める。
何か念を押しておきたいことがあるようだ。
「はっ」
「息子よ。
前衛部隊には……
このこと、決して知らせるでないぞ。
己が囮であると知れば、おのずと攻撃の勢いが鈍くなるからのう」
「ち、父上!
前衛部隊に真実を知らせず、決死の突撃を続行させるのですか!?」
「『敵を欺くには、まず味方から』
こういう言葉がある」
「し、しかし!
味方まで欺くのはさすがに……」
「前衛部隊の攻撃が凄まじいほど、敵の目はそこに釘付けとなろう。
我らが陣形を変えていることに気付くことも、その動きに反応することも確実に『遅れる』」
「なるほど。
その状況で武田四天王の『一撃』を食らえば……」
「敵は意表を突かれて大いに驚愕し、狼狽するに違いない。
まさに瞬殺だろう」
「結果として。
前衛部隊の犠牲は『最小限』で済むと……」
勝頼は十分に理解したが、こう思ってもいた。
「前衛部隊の兵たちは、敵の中央を突破しなければ勝利はないと思っている。
隣の仲間が弾丸に当たって悲痛の叫び声を上げ、前にいる仲間が長槍で脳天を叩き潰され……
それでもなお、命懸けの突撃を続行しているのだ!
己が囮であるなどとは夢にも思っていないだろう。
勝利するには、そこまで冷徹にならねばならないのか!」
思わず声に出た。
「戦とは……
人を、人の姿をした『化け物』に変えることなのでは?」
と。
◇
その後。
前衛部隊の凄まじい攻撃に、徳川・織田連合軍の目は釘付けとなった。
武田軍に鶴のような美しい『翼』が生えていることに気付くのが遅れた。
采配が振られると……
美しい翼は敵の側面へと回り込んで一気に襲い掛かった。
旗印を見た敵は大いに驚愕し、狼狽した。
無防備な側面を武田四天王の山県昌景と内藤昌豊に襲われている現実に、背筋が凍るほどの恐怖を覚えたからだ。
この『一撃』のために2人は無傷で温存されていたのである。
真の包囲殲滅戦とはこのことだろう。
徳川・織田連合軍は……
前方から武田軍前衛部隊と、両側面を2人の武田四天王に包囲された。
「翼を閉じよ。
徳川家康を、生きて浜松城へ帰すな。
必ず討ち取るのじゃ!」
再び采配が振られると……
美しい翼が閉じ始め、敵はその中に閉じ込められた。
待つのは確実な『死』しかない。
閉じ込められてすり潰されていく兵士たちは、恐怖のあまり我を失い、そして『発狂』した。
味方を押しのけるために同士討ちすら始めた。
それでも……
徳川軍本陣の精鋭たちは、家康を逃がそうと必死に戦っているようだ。
どう頑張ったところで、無駄な足掻きではあるのだが。
勝頼は、その一部始終を見ていた。
【次節予告 第三十二節 空城の計、徳川家康の真の狙い】
徳川家康は『空城の計』を仕掛けようとします。
その策略が武田軍に通用するかを疑う茶屋四郎次郎に対し、家康はこう言うのです。
「武田軍を城の中に入り込ませるのが、真の狙いだからのう」
と。