二種類の「孤独」──『孤独の発明』を読んで
孤独。だが一人という意味ではなく。たとえば自分がどこにいるかを知るために自らを追放の身に追いつめたソローの孤独ではなく。鯨の腹のなかで解放を祈るヨナの孤独ではなく。退却という意味の孤独。自分自身を見なくともよいという意味の孤独、自分が他人に見られているのを見なくともよいという意味の孤独。
ポール・オースター『孤独の発明』柴田元幸訳、新潮文庫、新潮社、平成27年、p.29
孤独にも種類があって、「孤立」「隔離」などを意味するisolation(アイソレーション)はネガティブな意味合いが強い。対して、solitude(ソリチュード)は、「誰にも煩わされない」という、どこか肯定的な意味を持っている。上に挙げた『孤独の発明』の原題は“THE INVENTION OF SOLITUDE“と、後者の「孤独」を採用している。
「自分が他人に見られているのを見なくともよいという意味の孤独」。それは確かに、寂しさと孤立を指すisolationとは、また全く別の事柄だ。他人から見られていない、居心地のいい一人。この孤独はよくわかる。誰かが側にいるとき、それがどんなに親しい人であっても、そこでは自分が「自分の思う自分」と「相手から見た自分」に分裂してしまって、本当の意味での「一人」になることができない。肯定的な意味での「孤独」は、誰にとっても大事なものなんじゃないか。むしろ、その孤独すら追放して常に誰かといたいと思う人は、少し普通じゃないように思える。それは他人への依存だ。仲がいいのとは訳が違う。
「自分が他人に見られているのを見なくともよい」──。裏を返せば、他人に見られているというのはそれだけで負担になるということだ。「他人に眼差しを向けることは、それ自体が一種の暴力である」というようなことを言ったのは、確かサルトルだった。視線を向けること、それ自体の暴力性。他者がそこにいて自分を感知していることは、それだけで私を緊張させる。そんな眼差しを向けてくる他人がいない、という意味での孤独。一人ぼっちでありながら、とても居心地のいい場所。ソリチュード。
私は思い知る。他人の孤独のなかに入り込むことなど不可能なのだと。
同上、p.34
私の孤独にあなたが辿り着くことも、あなたの孤独に私が入り込むこともできない。できないし、そんなことをしようとすることが、そもそも間違っている。人の内面は無闇に踏み込むような場所ではないから。できるとしたら、相手の孤独を尊重することだけだ。話せばわかるというものではないし、わからないことを分かり合うよりほかにないのだろう。淋しいけれど、それがきっと人間の持つ性質なのだ。
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