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哲学ノート④ヴォルテール『寛容論』

『寛容論』、シャルリー・エブド事件のあと、フランスでベストセラーになっているらしい。ソースは以下。

だいたい面白く読めるのだけれど、ひとつ反論はある。次の部分。

人間の権利は、いかなる場合においても自然の法に基づかねばならない。そして、自然の法と人間の権利、そのどちらにも共通する大原則、地上のどこにおいても普遍的な原則がある。それは、「自分がしてほしくないことは他者にもしてはいけない」ということ。(※1)

これに関してはあまり賛成できない。中国のことにも通じていたヴォルテールのことだから、『論語』の「己の欲せざるところ人に施すなかれ」のフレーズを知っていて持ち出した可能性もあるけれど、これは違うと思っていて。

周知の通り、「されて嫌なこと」は人によって違う。ある人は「役立たずって言われるくらいなら、殴られるほうがマシ」と言うかもしれないし、またある人は「殴られるのはいいけど、馬鹿にされるのだけは許せない」かもしれない。Aさんは外見をけなされるのが嫌で、Bさんは能力を貶められるのが嫌かもしれない。

「されて嫌なこと」は、人によって違う。だから「自分がこれをされて嫌だから、相手も嫌だろう」──裏を返せば「自分はこれをされても構わない。だから相手にもしていいだろう」は、成り立たない。それはどこまでも自分を中心に据えた考え方だ。

正確には「相手がされて嫌なことをやらない」だろう。相手が望まないことを押し付けない。そのほうが自然に適っているし、他者を尊重している。だから、論語の文句を敢えて書き換えるなら「人の欲せざるところ、人に施すなかれ」になる。極めて当たり前のことだけれど、当たり前だからこそ自然の法と呼ばれるのだ。

「寛容」の例について昨日は中国について書かれた部分を挙げた。でも、そのすぐあとに日本についての記述がある。せっかくだから引用しておく。

日本人は、全人類のうちでもっとも寛容な国民であった。その帝国では、十二の温和な宗教が定着していた。そこへイエズス会士が来て、十三番目の宗派を形成した。ところが、この宗派は自分たち以外の宗教を認めたがらない。その結果はみなさんご存じのとおり。わが国でカトリック同盟が起こした内乱に劣らぬほどの恐ろしい内乱が日本で起き[島原の乱]、その国を荒廃させた。(…)われわれは日本人から凶暴な獣みたいに見られてしまうようになった。(※2)

日本史で勉強した「島原の乱」、そういう見方もあったのか……と思う。なんとなく「天草四郎が負けたあれ」くらいの扱いだった固有名詞が、急に厚みを帯びてくる。

いまは信仰や宗教よりも、政治的な主張の違いで衝突が起こっている。BLM、フェミニズム、アンチフェミニズム……。どんな主張を掲げてもいいけど、寛容の精神は大事だ。相手をとにかく焼き滅ぼそうとする精神は狂信的だ。それは自然法に反する。そんなことを思う。


※1、ヴォルテール『寛容論』斉藤悦則訳、光文社古典新訳文庫、2016、61頁
※2、同上、50-51頁

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。