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飽きっぽい人のためのトランスラン3

飽きっぽい人でも楽しく続けられて、心身が健康になり、アイデアまでわいてくる究極ジョギング。第一の原則「自分を徹底的に甘やかす」、第二の原則「自分に義務を課さない」を既に説明してきた。

引き続き、第三の原則「走りながら自分の思考と感情に注目する」の説明に入ろう。

今までの話は走るにあたっての心構え、前提の色合いが強かった。だが、第三の原則「走りながら自分の思考と感情に注目する」というのは、より具体的な技法である。まずはその技法の根拠となる理論の方を簡単におさえておこう。

歩く瞑想のできそこない

「歩く瞑想」を知っているだろうか?「マインドフルネス」という言葉も昨今よく見かけるようになった。歩きながら行う瞑想、マインドフルネスのことである。流派によって様々なものがあるようで、たとえば、歩いている足の感触に意識を向け続けることで、「今」「ここ」に意識を向けた状態を作る。そういう精神状態を作ることが一種のメンタルトレーニングとなり、ストレス解消や心の安定につながる。

瞑想自体はぼくの専門外なのであまり深入りして説明することはできないが、今回説明する第三の原則「走りながら自分の思考と感情に注目する」は、この歩く瞑想の派生バージョンと言える。

いや、正確には派生バージョンというよりも、「できそこない」という表現が近いだろう。

意識がフラフラ飛んでしまった方がいい?

当初、ぼくはウォーキングやジョギング中の暇つぶしとして、歩く瞑想を試みていた。歩く瞑想は動きや刺激がある分、静かに座って行う瞑想よりは飽きにくい。

それにもかかわらず、ぼくは、持ち前の飽きっぽさ、集中力の欠如を発揮して、今、ここへの集中を保てなかった。フラフラと妄想の世界へと意識が飛んで行ってしまう。そうやって失敗を繰り返した結果、段々と歩く瞑想のトレーニングが嫌になってきて、そのうちやらなくなる。

そして、しばらくすると「今度こそもうちょっと頑張ってみよう」と思い立ってまたやり始める。

だが、これまたすぐに嫌気がさしてやめてしまう。

そんなことを何度も繰り返していた。

そして、その繰り返しの中でぼくは段々とあることにに気づき始めた。

確かに瞑想では意識のコントロールが効かず、どこかにフラフラと意識が飛んで行ってしまうのは望ましくないかもしれない。

だが、ぼくの専門である催眠では必ずしもそうとは考えない。逆に意識がフラフラと飛んで行ってくれた方が上手くいくことも多いと考える。催眠誘導(=トランス誘導)とは、被験者の意識をどこか遠いどうでもいいところにさまよわせておく技術でもあるのだ。

これはこれで使えるんじゃないのか?

無意識が未知の問題を解決する

意識がフラフラと飛んで行ってしまった方がいい。
これはどういうことか?

催眠では人の心を意識と無意識の二つにわけて捉える。意識は自覚できる心の働き、無意識は自覚できない心の働きである。

(参考:意識と無意識についての解説あり)

意識はいつも使い慣れた知識だけを使い、使い慣れた思考パターンでものを考える。新しいアイデアはそこから生まれない。

いつものやり方ではどうしても解決できない問題にぶつかったとき、意識は無力である。途方に暮れて困ってしまう。

そんなとき、人は自覚しないまま、意識の活動を低下させ、無意識の活動を活発化させる。これがトランス状態だ。

なぜ解けない問題にぶつかって困ると、意識よりも無意識が活性化するのか?

それは、無意識的な精神活動の方が、そういった未知の問題への対応能力が高いからだ。無意識には過去の様々な体験記憶や知識のデータベースがある。使われずに眠ったままになっている記憶や知識がたくさん収められている。意識による使い古したやり方でうまくいかないとき、人は自然と無意識へとアクセスするのだ。

余談になるが、混乱技法というトランス誘導の技法がある。あれは、わざと意識では簡単には解けない問題を相手にぶつける。すると、それに困った人が、何とか問題を解決しようと自然と無意識を活性化させてトランス状態に入るのを利用する。

無意識のプロセスの大半は自覚できない

トランス状態においては、無意識が、日ごろ使わない記憶や知識にアクセスし、様々な組み合わせを模索する。

そういった試行錯誤、脳内のリハーサルの多くは無自覚のうちに行われる。そして、それがうまくいくと、そこまでの一連のプロセスは自覚されないまま、結果として新たな思考パターンや解決法だけがひらめきのような形で私たちに降ってくる。

今、ここ、から意識が離れ、フラフラと意識がさまよっていってしまう状態は、瞑想においてはあまり望ましい状態とは言えないかもしれないが、新たなひらめきや発見を必要とする場面では非常に役立つのだ。

ぼんやりしている方が無意識がいい仕事をする

無意識が解決法を勝手に見つけ出してくれると言われても、にわかには信じがたいかもしれない。でも、こんな体験はないだろうか?

目の前に解決すべき問題があり、うんうんと頭をひねって考えているのだけど、なかなかよいアイデアは浮かばない。

こりゃ、もうダメだ。そうあきらめて、ちょっと気分転換がてら、風呂に入ったりする。そして、さっきまで頭を悩ませていた問題からは離れて、なんとなくお湯につかって気持ちがいいなあとぼんやりしているうちに、さきほどまで頭を悩ませていた問題について「これはいけるかもしれない!」という予感に満ちた思いつきが降ってくる。

そして、その思いつきが降ってきてから、実は自分が意識しなくても自然とその問題について考え続けていたことにさかのぼって気づく。

こんな風に無意識は意識を緩ませて、ぼんやりしたときにいい仕事をし始める。

無意識に願掛けをする

ぼくは難しい問題に取り組むとき、無意識に願掛けをするようなやり方をよく使う。

まず最初にその問題に関する資料をある程度読み込む。次にその問題を解決するための鍵となりそうな問いを立てる。問いとは疑問文のことである。人は問いを立てると、自然とその答えを探してしまう。その原理を利用する。

しばらく、その問いについて意識的に考えて、これは難しいと思ったら、一度、その問題について意識的に考えるのはやめてしまう。

そして、そこから先は無意識の力を借りることにする。

意識が後退してぼんやりしてる方が、無意識はいい仕事をしてくれる。意識には問題にタッチさせないのがポイントだ。

そのために、風呂に入ったり、散歩をしたり、軽く走ったりする。

椅子にじっと座っているだけでは、つい意識があれこれ問題について考えてしまい、かえって無意識の活動を妨げる。

でも、お湯やシャワーの音や感触、歩いたり走ったりする足の感触、移り変わる風景、そういった適度な変化や刺激は、意識をそちらへと向けてくれる。そうして意識が問題から遠ざかると、無意識が勝手に問題を解き始めてくれる。

無意識はいつでも自分にとって重要な問題を取り扱おうとする。

だから、無意識に対して、「今はこの問題が私にとって重要なんですよ」と伝えておく必要がある。そのために資料を読み込み、問を立て、しばらくは意識的に頭を悩ませるのだ。これが無意識への願掛けの儀式となる。

このメッセージが無意識に届いたならば、どのタイミングになるかはわからないが、無意識は何らかのヒントなり答えなりをくれる。それは、たいてい意識で考えることよりも冴えていて、新しいものだ。

集中と拡散の狭間で

瞑想では、「今、ここ」に意識を集中させることで、心の安定を得る。
催眠では、漂い、拡散し、後退した意識の代わりに、無意識の叡智が私たちを助ける。

これはどちらに転んでもおいしい話ではないか?

「どっちか一方にならなければならない」と義務を自分に課すから、それがうまくいかないときに自己肯定感が下がり、傷つく。

でも、走っている最中、意識が何かに集中してもいいことがあり、意識が拡散してもいいことがあるのだったら、こんなに気楽なことはない。どっちでも大成功。いつでもうまくいく。走っているだけで、毎回成功し、自己肯定感があがっていくのだ。これを利用しない手はない。

ここまでで、知っておいてもらいたい理論的背景はおしまい。次は実際に走る際の具体的な意識の向け方について説明する。


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