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「アウレリャーノがやってくる」感想

「アウレリャーノがやってくる」高橋文樹著 

 最初から、独特の言葉選びで、物語が運ばれてゆく。その言葉の選び方、言い回しが、私には面白く好ましく感じられ、興味を惹いた。内容も、美しい詩人たちの話で、私の好みだった。私が昔読んだことがあり、かつ心に沁み渡らせた、詩の数々、その詩人たちの名が連なる。詩だけではなく、文学全般の作者、作品、言葉、が、随所に出てくる。選び抜かれた言葉たち、ちょこちょこと、実に小気味よく、エッセンスがちりばめられており、オシャレな感じが全編に渡る。センスが良いというのか、その配合が程よく、バランスも良く、まるでチマローザのオペラを聴いているかのようだった。チマローザは、ゲーテが最も愛した音楽家だが、ゲーテが二番目に挙げているモーツァルトのように、オペラが音楽肥大を起こしておらず、オペラが苦手な人でもおそらく苦なく最後まで観ることが出来るだろう。そして魅了される。それと同じように、この小説も非常に読みやすく、そして私を魅了したのだった。
 私は、名刺代わりの小説10選、というのをツィッターでbotとして流しているが、今回、この作品を読んで、10選の中に入ったばかりか、第一番目の「限りなく透明に近いブルー」の次に位置することになった。それほど、この作品は素晴らしかった。「限りなく透明に近いブルー」も、私は以前書評したが、その中で「よくできた酒のように酔わせる」という表現を使った。それと照らし合わせると、この作品は、村上龍とはまるで違う性質のものだけれど、酒に酔わせるようなタイプの小説であることは共通しており、そしてこれはよくできたカクテルだと感じる。それは魅力的な、まるでアブサンのような、危険な作用を孕んだ酒だ。
 それから、詩人たちの話だからだろうか。夜空の星々のような、いろんな種類の宝石のような、不揃いで細かい輝きが、バラッバラッとページにばらまかれている。そのような錯覚が読んでいる間中ずっとあった。とても綺麗なのだ。これは、「限りなく透明に近いブルー」を読んだときに、古本屋で見付けたボロボロの茶色い本だったにも関わらず、ぺーじをめくるたびに、芳しい香りが立ち昇った。ことと、なんだか不思議さが似ている。なんというのか、選ばれた物語、というものは、こういうことがあるのかな、と神秘を感じたものだ。その秘密は、私が病気のせいかもとロマンを壊すようなことは言わずにいようと思うが、おそらくずっと分からないままなんだろう。
 それから、重要なことになるが、この小説は、噂によると、新潮新人賞を獲ったにも関わらず、出版されなかったという。それは、私は相当な事件だと言わざるを得ないと思った。おそらく、これほどの才能を持った人に対して、ある人々からの悪意が入り、この人はつぶされたのだ。私はライフワークを書くためにモーツァルトを調べたりしてきたので、抜きん出た才能のある人への妬みは想像以上のものがあると知っている。現代においても依然としてそれは存在するし、その実例を何件かは知っているつもりだ。けれど、妄想とか言われたらおしまいなので、言わないようにしているけれども。
 小説家になろうというサイトがあるが、どれを読んでもクソだ。私ばかりがそう思うのではなく、私の周りの誰もがそう言っている。空華文学賞をやっているから分かるが、公募勢の方がはるかにレベルが高い。小説サイトは、なろうだけでなくカクヨムなど他のサイトもすべて極めてレベルが低い。そういうところから、かろうじてクソではなくて、ボチボチの人を持って来て、下手な鉄砲も数打ちゃ当たるで、どんどん出版している出版社も、辛いところだろうか。今回この作品を読んで、事件を思ったとき、私は出版社もそうだけど、それよりも、大文豪とか言われている人たちに対して、懐疑心を抱いた。権威というものを持つ人は、権威を失うことを極端に恐れるものだ。だから仕方ない。ボチボチの人だけ持って来ておけ。ということなのだろうかと。それを考えると、村上龍をデビューさせた講談社などは良い出版社なのかもしれない。わりと良作を産み出す人をデビューさせている河出もそうだろうか。あてずっぽうで言ってみるけれど。
 本当に優れた人が日の目を見るのは難しい。そこには相当の策略が要る。モーツァルトもベートーヴェンも、策略に通じていたから歴史に名前が遺ったのだ。赤子のような人は、周りの大人たちの策謀で、時々遺ることがあるが、そうでなければいともたやすく消えていく。そういう暗い現実があることを、私は子供たちに言うのだが、彼等は信じない。
 そんな汚い世界をかいくぐるようにして、私の元に来てくれた、この作品。私は、子供たちにも読ませたいと思った。

藍崎万里子

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