今日も、読書。 |学生だった、あの頃の私と出会う本
伊吹有喜|犬がいた季節
昭和から平成、そして令和へ。移り変わる時代の中で、変わらずあり続ける、学び舎の高校。
生徒たちが入学、卒業し入れ替わっていく中で、学校で飼われている犬のコーシローだけが、不変の視点を持っている。
昭和63年、コーシローは高校にやって来た。以来「コーシローの世話をする会」の生徒たちが、代々コーシローの世話をする。
本作は、そんな世話をする会のメンバーとコーシローを中心とした、高校生の恋愛や友情、挫折、旅立ちを描く、青春連作短編集だ。
学校とは不思議な場所だ。
自分が生徒として通っているうちは、学校があることは当たり前であり、世界の全てだった。毎日通い、友達と話し、勉強や部活に打ち込む。学校という世界は、子供の私にとって、絶対的なものに感じられた。
しかし、ひとたび卒業すると、学校の印象はガラリと変わる。突然他人になったかのような、余所余所しい顔を見せる。あれだけ大きくて、絶対的な場所だった学校が、こんなにも狭く、小さな世界だったのかと驚く。
毎日当たり前のように通っていた場所に、ある日を境に、全く行かなくなる。そういった経験は、誰しもあるだろう。学校は、誰もがそういう別れの経験を持つ、特別な場所だ。学校で過ごす時間の本当の価値は、卒業してから気付くもの。
言うまでもないことだが、自分が卒業した後も学校には後輩にあたる生徒たちがいて、後輩の卒業後はそのまた後輩が後を引き継いでいって、時代とともに人が入れ替わりながら、学校は続いていく。
自分がかつて学んでいたあの教室、走り回っていたあの運動場には、今も、今の時代の生徒たちがいる。その時代には、その時代の生徒たちが主役としていて、そこには彼らだけの物語がある。学校を舞台とする物語は次の代へと引き継がれ、そうして学校は生き続ける。
私が『犬がいた季節』を読んで感じたのは、そういう感動だった。
学校生活へのノスタルジックな思い出や、当時は抱くことのなかった感謝の想い、そして当時高校生だった自分への、懐かしくてどこか切ない感情。そういった種類の感動が胸の内から湧き起こってきて、小説の登場人物たちの物語と溶け合って、心がじんわり温かかった。
この小説には、全ての人にとっての「学生だった私」が息づいている。
ページを繰り、登場人物たちの夢や葛藤に触れるうち、高校生だった頃の自分に出会う。出会う場所は、かつて毎日通っていた、あの懐かしい高校。当時の景色や匂いが蘇り、少し気恥ずかしく、そしてつんと涙が出そうになるような再会が、そこにはある。
皆さんの通われていた学校に、犬や猫など、「学校のみんなで飼っている」といった動物はいただろうか。
本作のコーシローのように、校内にすっかりと馴染み、教室や廊下、校庭にいても違和感のない、動物が当たり前に暮らす学校。なんという癒し。なんという優しい空間だろう。
私の家では、シーズーという小型犬を飼っている。この子がもう、無茶苦茶可愛いのだ。うちの子が一番。異論は認めない。溺愛。
本作のコーシローのように、きっと犬は私たちが思っている以上に、人間のことを理解しているのだと思う。人間の感情や願いを機敏に感じ取って、良き理解者として、そばにいてくれる。私はうちの子にいつも癒され、救われている。本当にありがとう。
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