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ぼくの問いとシュティルナーの答え⑤
シュティルナー哲学の真骨頂はエゴイズム(自己性)です。エゴイズムときくと「自分勝手に振る舞う」というイメージをもつ方が多いのではないでしょうか。不快な気分になる方もいるかもしれませんね。
✍意図せざるエゴイスト
あなたはエゴイストです。僕もエゴイストです。ボランティアに勤しむ方もエゴイストです。意図せずとも誰も彼もがエゴイストです。なぜならエゴイストであることは、存在しているもののと性質だからです。
シュティルナーはこういっています。
「諸子が主要事なのであり、誰もが自らにこういわざるをえない。
自分にとって自分がすべてであり、自分はすべてのことを自分のためにするのだ、と」
*EE140、『唯一者』下19。
その根拠となっているのは、僕の存在の仕方です。
✍シュティルナー哲学の大前提
「存在ということでは、全く何ものも正当化されはしないのだ。思惟されたものは、思惟されたものではないものと、同ように在る。路上の石は在り、そして、その石についての私の観念もまた在る。両者はただ異なる空間〔Raum〕の中に在るというだけで、前者は空気のみなぎる空間の中にあり、後者は、私の頭の中に、私自身の中に在るのだ。けだし、私とは、街路と同ように空間であるからだ」
*EE301、『唯一者』下283-284。
シュティルナーは空間について詳しく語っていません。物理的なものたちが住まう路上などの具体的空間と、形をもたないものたちが住まう抽象的空間の二つに区別できるでしょう。
僕という存在について考えてみます。
物質である僕の肉体は具体的空間に現れ、具体的空間内の事物に曝されています。言い換えれば、僕は環境と接している。
それでは、「この私は、私だ」という自己意識(自我)や「自分でこれを選択した」という自由意志、思考、記憶、感情、知覚などの物質ではない事物はどうでしょうか。これらは環境から刺激をうけた僕の脳における神経細胞間の化学物質のやり取りや遺伝情報の発現によって担われています。
つまり、肉体や形をもたない感情、記憶も、いずれもが僕という空間の中に現れている事物なのです。
したがって、僕は完全に物質的存在ではありませんし、観念的存在でもありません。僕とは、物質と観念が現れる「場」なのです。
シュティルナーは、僕やその他の個体、社会、自然環境などを何かが現れる場として捉えました。そして、存在者は空間を占める仕方で存在していると考えました。
場が存在の条件です。僕(場)は、環境というさらに広大な場のなかに現れることによって存在しています。そして、僕のなかに様々な事物が現れていきます。場が場を無限に包括し合うことによって、場(僕)は存在しているというのです。
✍まとめ
①存在者(事物)は存在しつつ、他の存在者(事物)の現れる場としての役割を担っている。
では、またご縁をお待ちして。