45 “意識”という存在の居場所
物心ついた頃、私の意識は「ただ見ている」という状態そのものだった。
目の前で起こる現象を“ただ見ていた”。その感覚だけは今でもしっかりと記憶している。
両親、姉、祖父母、周りの大人たち、同世代のオトモダチ。 空、雨、太陽、動物、花、木々、虫、公園、家、道、建物、季節。
目に映るものすべて、ただ見ていた。
その頃の私は「何かしたい」「何か食べたい」「何か変えたい」などという欲が無くて、“ただ外界を眺める”だけで時が過ぎた。
幼稚園時代、そんな私に合ったペースで遊ばせてくれた。
カメの池を静かに眺めた。カメが動くまで、私も絶対に動かないという遊びをした。🐢…
広い運動場を向こうまで真っ直ぐ駆け抜けた。
壁に貼ってある、先生が作った切り絵を眺める。
ブランコがオトモダチに占領されていたから、その子が飽きるまでひたすらぼーっと待った。
だけど待っている間にブランコのことは忘れた。
先生が弾くピアノ曲で瞑想する時間は至福だった。
目の前で起こる“今ここ”を体験する世界
無口でおとなしくて変わった子どもだったと思う。その頃、私の意識は既に完成していた。
「ただ見ている」私がいた。
おそらくそれが、「魂」なのだと思う。
小学校に上がる頃を境に、私は次第に魂を置き去りにしはじめた。ほんの数年前、置き去りにした魂の存在のことを思い出した。そして、今年やっと戻ってきた。私の中に魂が収まったのだ。
いま現在、幼少の頃に感じていた意識状態にほぼ戻ったと感じている。数十年ぶりに味わう感覚。
分離していた魂が、自分の中に戻ることで、“魂が外界を眺めている”という意識状態に戻った気がする。長かった。
当初、この今の景色がどんなだろうと想像してた。
私はどこか未開の地の見たこともない景色を拝むことになるのではないかと思っていた。
だけど私は今、一周まわってスタート地点に還ってきた感覚なのだ。不思議。
つまりは、生まれた直後の完成型へと戻ったのだ。
思えば、肉体年齢を重ねるにつれ私は変わってしまった。「ただ見ている」高次の意識(魂)の声を無視し、源から分離して小さな自分になってしまった。
擬態し自衛するコノハチョウのように、環境に合わせ、外界から浮かないよう誰かや何かを演じることに労力を捧げた。すると繊細な魂の声は、無造作に降り注ぐ粗いノイズによって簡単にかき消されていった。
虫や生物は身を守るために「攻撃」と「自衛」のいずれかの手法を選択し進化してゆく、と本で読んだことがある。コノハチョウは後者だ。
私は過去、コノハチョウと同じ手法で身を守った。親や友達、学校教育、社会というフィールドで存在するには「ただ見ている」といった意識では生きづらい環境と時代だった。だけどその間、智慧と体験でもって知性と精神性のレベルを上げる必要があった。
一方、「攻撃」という手法で進化を遂げたのは、例えばサソリ。ハサミと毒針の役割はよく知られている。サソリの手法(攻撃)で身を守っている人も、世の中にたくさんいる。“良い”“悪い”ではない。コノハチョウの自衛もサソリの攻撃も同じ身を守る行為なんだから。
人間である私は、その「身を守る行為」を手放した。そうすると、徐々に景色は変わっていった。
これまで歩んだ道で得たものは私にとって必要不可欠な体験で、今となっては後悔も不満も感じていない。すべて完璧、すべて必然の道だった。
*
人間は半霊半物質。
物質(肉体)も大切だけど、意識や精神といったものに比重を置かないと行き詰まってしまうのは当然。
じゃあ「意識」とは一体なんなのか。
「意識」という存在の居場所は誰も知らない。
解剖学者でもあり脳科学者でもある養老孟司さんがこんなことを仰る。
“「意識」はどこにあるのかと聞かれても困る。
「腎臓はどこにあるか」には答えられる。でも
先の質問は「循環はどこにあるか」と似ている。
“循環”に居場所はない。色んな臓器と相互に作用
することで生まれる“働き”だから。
つまり、「意識」は“働き”だから答えは簡単じゃ
ない。”
確かに。
そういや「記憶」もそうだ。
海馬や扁桃体だけに関係してるってわけじゃない。たぶん何かと何かの間にある。もしくはカラダじゅうの全細胞に蓄えられていて、カラダじゅうを使って、仕舞われていた記憶情報の部品が集結し再構築される。
何度も何度も形づくる記憶は忘れないし、取り出しを試みるのをやめればその道は徐々に閉ざされてゆく。記憶にもこれと言って明確な居場所はない。
人間は、存在や居場所が明確でないものによって構成されている。これがまさに半霊半物質の人間のしくみを、曖昧だけど正確に述べていると言えよう。
それを受けて私は思う。
「意識」の居場所が自分の中で明確に分かれば、世界は広がる。誰かに分かってもらわなくていい。自分が分かっていればいいのだ。
肉体(物質)にとらわれるのではなく、意識優位な存在になってゆく。勿論、肉体に固着した未消化な感情や情報は事前に手放し、その上で“意識”に取りかかる必要がある。その先でたどり着くのが“神の意識”なのだと思うから。
以前、“私はなぜか歯医者の麻酔が効かない”と話したことがある。
内容を簡単に説明すると、、
【いつも担当のやさしい女医さんがお休みであることが分かり、急遽、院長先生が治療してくれたのだけど。
おそらく急な変更で戸惑いもあって受け入れることができないまま麻酔が注入されたから、まったく効かなくて何度も打たれた💉。だけどその時、“受け入れてないからだ”と気づき、“受け入れる😳”と意識的に決めた瞬間、麻酔が効いた👍】という話😃。
この記事デス↓🐢✨
そして更に、、ちょうど昨日アップされたマドモアゼル・愛先生の講義の動画がある。そこで仰っていた内容が、私のこの「意識と麻酔について」を考えていたタイミングとぴったり合っていて、インスピレーションをもらった。
それが、、この話題。↓
ロマノフ王朝とかかわりの深かった怪僧ラスプーチンは、肉体よりも意識度合いのほうが高いために毒を盛られても効かなかったという話がチラッとだけ挙がった。(後で調べると、毒=青酸カリらしい。。すごいな…ホントかな😅笑)
その瞬間、「なぜ私は歯医者の麻酔が効かなかったのか」ということへの答えだと思った。
つまり、「意識を精妙に保つことができれば、肉体次元で起こる諸々は“意識”の前で全く意味を成さない」ということが分かった。
勿論、科学的な話ではない。
でも私の感覚で、もう確信してしまった。
そのくらい「意識」というものは私たち人間にとって核となるもので絶対なのだと思う。
だから、カラダに起こる諸症状(痛み・疲れなど)は幻想であるということ。
すべて自らの意識が創る幻想なのだ。このあたりに気づいていくと、もうこの地球で吹き荒れる嵐にも、眠り薬にも影響されない「私」になる。
〈おわり〉
愛先生の講義、貼っておきます😌✨
2024年以降の地球について。あいかわらず心地良いお声。そして、いいお話でした。
(ラスプーチンの話は38′15″〜)
Ayumi☽