詩をうたう曜日
先週の土曜日、顔がなんだか厚ぼったいなあと思ったら、熱が出て腫れていたのだった。出先ですっかりくたくたになって、家に帰り着いてそのまま動けなくなる。まずひと眠りしたら少しましになって、だけど身体は相変わらずだるくて、何をしようにもできなくて。
そこで前日に、古本屋で詩集を買ってきたことを思い出した。たぶん、自分で買った初めての詩集。作家・江國香織さん初の詩集と銘打たれたそれを、本棚から自然と手に取り、会計まで左手で握りしめていた。
詩って、よくわからない。だけど知っている人の詩なら読めるかもしれない。味わえるかもしれない。今の私は何かと新しい場所に手を伸ばしたがりがちで、詩もその一つだった。小説でもエッセイでも俳句でも短歌でもなく、詩。どれにも当てはまらない、最も無形態のものが詩なんじゃないかと思う。そういうものを、どう扱うべきか、どう評価すべきか私にはまだよくわからないのだ。
スマホを持つのもだるい手で、文庫本をなんとか開く。江國さんの言葉選びはわかりやすくやさしくて、それでいて気づかないうちに別世界にさらわれてしまいそうな独特な感性に浸されている。江國さんの世界観が存分に発揮されている、そして小説よりももう一歩、江國さん自身に近づけたような気がする。
あっさり影響を受けた私は、影響を受けたのが明らかな詩を書いた。そのうちのいくつかはInstagramに公開した(前々から詩っぽいものを不定期に上げてきたのだけれど、久しぶりに)。誰かを真似して作ってみてもやはり、詩の正解はわからない。正解なんてないのかもしれない。
細くなりたい、かわいくなりたい、うまく書きたい、ピアノを弾きたい、本が読みたい、あの場所へ行きたい、いろんな人に会いたい。さまざまな欲求に突き動かされて生きている、今日この頃。
因島にオープンした本屋さんで、創作する人、したい人の集まりに参加してみたのもその勢いに乗ってのことだった。
詩集を買ってみたのだって、その会で「詩ってなんなんだろうね!?」と話題になったからだ。創作と一括りに言っても、詩と小説じゃ全然違う(詩みたいな小説も存在するけれど、私は小説みたいな小説が書きたいから別物だ)。これまでの私は、詩とはなんぞや、と考えたことすらなかった。きっかけは思わぬところから降ってくる。
詩って、言葉のやわらかいところに触れるためにあるのかもしれない。詩には小説みたいに何千文字も、何万文字も使わない。短くて平易な言葉、だからこそその機微の一つひとつに思いを馳せることができる。
だからといって長い文章ではおざなりになるわけではないけれど、詩は特に、言葉に対して心の触手を生やす余裕を与えてくれるような気がする。やさしい言葉、刺々しい言葉、揺れる言葉に心を委ねる、ためのもの。
知らないものを知りたいと思えること、欲望に忠実であれることは、気分のいいことだ。欲望が湧くこと自体が幸せで満たされたことであるのは、重々承知の上で。
火照る身体に浮かされつつも、私は心に栄養を蓄えた。翌日、目を覚ますと熱はすとんと下がっていた。