現代哲学の「差異」と「差延」入門
はじめに
コンピュータ科学、情報科学の創始者の一人にクロード・シャノンと言う人がいます。
シャノンは情報を「変化するパターンの中から選択できるもの」と簡潔に表現しました。
情報科学では技術の関係もあって情報をビットで扱います。
アスキーコードなどの言葉を聞いたことがおられる方もいらっしゃると思いますが、記号は2つあれば多文字の言語も一対一に相互変換することができます。
そのビットと言う言葉を導入したのがシャノンです。
このビットと言う2つの選択肢しかないものからVRやARなどリアル、あるいは実在が作られていることにご注意ください。
現代哲学の二大要素の1つ構造主義では従来の倫理思想の前提としてあった実在論の立場を取りません。
実体というものの存在を無視します。
しかし我々の脳の仕組み、認知システム上物事を実体として感じる素朴実在論を完全に排除してしまうと不便である以上に生活が成り立たないかもしれませんし、また不可能である可能性も高いです。
素朴実在論を排除して構造主義だけで生きていくのは無理と考えて、実体概念を利用しつつ構造主義を適宜利用していく際に便利なのが、差異や差延と言う考え方です。
差異や差延は哲学(存在論、認識論)をバリバリに構造主義で構築する際に学問的に利用しても良いのですが、もう少し意味を広くとって一般にも使える様にするといいかもしれません。
差異、差延は構造主義や現代哲学のような小難しい理論と結びつけなくても使えると便利な概念です。
しかも慣れてくれば差異や差延を使って構造主義や現代哲学の理解への取っ掛かりにもなります。
現代を生きるためのより便利な知恵を身につけましょう。
第一章 差異とは
差異という字面から見ると反対の言葉は同一や本当ということでしょうか。
仏教では対象を実体としてみることを仮、戯(時に色)などといいそれに対して空と言う概念を対置させます。
空は無でも不でも非でもないので、対象を認識できないという意味ではありません。
実体として認識するのではなく空として認識できると言っています。
この場合実と空が対照的な概念になります。
本当は空なのだけれども実体として認識してしまっているといういい方も出来ます。
空と言うと空っぽな感じで無と取り違えてしまうことがありますが無は認識しないことなので空とは別物です。
空は空として対象を認識しているのですが具体的には何を認識しているのでしょうか。
ちょっと例えを入れて食べ物を例にして果物の実や魚介類の実を考えてみましょう。
果物や魚介類を食べ物として見ると食べられる内側の実が本質で皮や殻は本質ではないものになります。
川や殻を開けてみて実がなかったらがっかりではありますが我々はそれを果物や魚介類とは認識できています。
逆に皮や殻を取って身を料理の食材として出された果物や魚介類を見ても、あるいは食べてみてもそれが何か分からない場合もあります。
調理してあるともっと分からなくなったりもします。
とすると対象を認知する際には食べ物としての本質である実の部分ではなく見せかけを作っている皮や殻の方が大切であるということになります。
次に対象である事物は属性を持っていると考えてみましょう。
また属性の他に本質があると考えてみましょう。
属性と本質が別個にあるかもしれませんが、複数の属性の中の何か特定の属性をその時の目的に応じて本質といえる場合もあるかもしれません。
そうすると物事は色々な属性を持っているということになるかもしれませんが、見方を変えてみると物事とは属性しか持っておらず属性の集合が物事だと発想の転換をすることができるかもしれません。
これを果物や魚介類の例えに当てはめてみましょう。
果物や魚介類の本質は食べられる部分である実であり食べられない部分である殻や皮は属性となります。
もう一つの見方は果物や魚介類は2つの属性から成り立っていると考えることです。
1つは実を持つという属性、もう一つは殻や皮を持つという属性です。
果物や魚介類の本質を食べ物であることと見た場合、実が果物や魚介類の属性かつ本質であり、殻や皮は本質ではなく唯の属性です。
何であれ我々が認知、認識する事物は属性を持ちます。
属性とは言えない本質を持つかもしれませんが、本質などは考え方の問題と言うだけで事物は属性だけからしか成り立っていないかもしれず、その時の目的に応じてどれかの属性を本質としているとも考えられます。
前者の本質と言う言葉を実体と言い換えてみましょう。
そうすると事物は実体を持ち実体は色々な属性を持っています。
後者の考え方では実体とか本質と言う考え方は必要なら導入すればいいだけのもので二次的なものでしかありません。
我々が認識するのは属性なので属性ではない本質なり実体があるとするとそれは直接認識できないかもしれません。
これはプラトンのいうイデアやカントの物自体というものになり大雑把にいうと実在論と言います。
この様な属性と本体を分けるのではなく属性の集合こそ事物そのものであると考えるのが空論や構造主義的哲学になりますが、実在論との対比で中世神学の言葉を使うと唯名論と言います。
有名な唯名論者にウィレムのオッカムという学者がいて現代思想家で記号論者のウンベルト・エーコの小説を実写化したショーン・コネリーが主演の「薔薇の名前」という映画の主人公がいます。
「オッカムの剃刀」という論法で有名で何であれ思想や理論の中にあってもなくてもいい要素があれば無駄なので切り捨ててしまえという考え方です。
この様な考え方を用いるとイデアや物自体は切り捨てられてしまいますので後者の空論や構造主義的哲学だけが残ります。
すなわち事物と言うのは属性の集合体でしかなく、その集合体を本質や実体と言うこともできるが、そうしたければそうすればいいが特にそうする必要も感じなければ、事物とは属性の集合でしかない、という結論になります。
第2章 IDとプロファイリング
犯罪捜査の方法でプロファイリングと言うのがあり一時本や映画で流行しました。
犯人の残した色々な手がかりから犯人像を構成していくものです。
カタカナ英語でいうとプロファイルはプロフィールです。
人でも事物でも様々な属性を持っています。
それをリスティングしたものをプロフィールとしましょう。
その人や事物の全ての属性を網羅できればいいのですが、これは出来る場合もあるかもしれませんし、できない場合もあるかもしれません。
「全て」にこだわる必要はないのである程度の分量の属性の情報が分かればその人や事物をアイデンティフィケート出来る、あるいは同一化できる、あるいはIDを決められると考えてみましょう。
ある程度のプロフィールを確定すれば認証可能になるということです。
またすべてでなくてもいくつかのプロフィール情報があれば認証できるかもしれません。
簡単にはID名やアカウント名、パスワードがあればいいかもしれませんし、指紋や顔認証なら1つで良いかもしれません。
正体不明の事件の犯人であれば色々な情報があれば犯人絞り込みに有利でしょう。
プロフィールは情報のリストです。
情報とは「変化するパターンの中から選択できるもの」です。
情報技術はデータと情報処理で成り立ちます。
我々は属性と言うデータを情報処理して実体と言うリアリティを生み出すヴァーチャルリアリティのようなイメージが空論や構造主義的哲学になります。
ですから素朴実在論と言うのは実体というものが我々がどう思うかに関わらず世界に存在していて我々がそれを発見するという風に考えますが、空論や構造主義的哲学では実体は作るもの、発明するものです。
IDがあってそれにプロフィールがくっついているのではなく、プロフィールが先にあってそれからID、アカウントを作るわけです。
IDが重複しないために必要なものは差異です。
全てのプロフィールが同じである異なるIDを2つ作ることはできません。
少なくともパスワードくらいは変えるでしょう。
何らかの差異がなければ物事の同一性、単一性、唯一性が担保できません。
第2章 差異
分かりやすい差異はイエスかノーかで示す事でしょう。
新しい携帯やタブやPCを買ったときにいろいろ登録するために性別や生年月日や国籍や時間や電話や住所などいろいろ入力する場合があります。
性別で男にチェックすれば女にチェックできませんし、女にチェックすれば男にチェックできません。
また国籍は日本にチェックすれば他の国にはチェックできません。
チェックするということはイエスで、チェックしないということはノーです。
属性は情報はイエスとノーという差異で示すわけです。
「変化するパターンの中から選択できるもの」が情報だからです。
我々の物理的な身体を情報にしたければどうしたらいいでしょう。
二次元的に表現したければ絵をかくようなものです。
しかも油絵のようにアナログに描くのではなくドット絵を描くようなものです。
空間的な位置や教会を表現できるわけです。
アナログではなくデジタルな情報で表現することは「変化するパターンの中から選択できるもの」を明確に示すことができます。
イエスかノー、チェックするかしないか、0か1で表現するかのようにシンプルに2つの記号列だけで最終的には表現できます。
これは情報の最も分かりやすい形でしょう。
第3章 差延
人も事物も差異でID付け、すなわち名をつけることができます。
もう一つ時間と言う要素を考えてみましょう。
物理学では時間は一つの次元ですので属性と見ることができます。
時間は連続的であることが自明の前提にされることもあり、この場合には時間と言う属性は事実上無視して扱われ属性ではなく前提として扱われることが多いでしょう。
個人認証であれば生まれたときや死んだとき、冠婚葬祭などの節目の折に属性の変化をした日時などを示すために時間が記述されることがあります。
何かのライフイベントによりその人の属性が変わったと考えるわけです。
これが普通の考え方かもしれませんが、現代哲学はもっと基礎から根本的に考えます。
そもそも属性が変わるのは一生涯に何度かあるライフイベントの時だけではないかもしれません。
もっと頻繁に属性を替割る場合もあるでしょう。
しかし現代哲学ではもっとラディカルな考え方をします。
何であれ属性というものは一瞬一瞬全て違うと考えます。
言い換えると属性は時間の経過を通して連続的に変わり続けているのです。
仏教では無常無我と言います。
つまり一瞬前の人や事物は今の人や事物とは違うものですし、一瞬後の人や事物は今の人や事物とは違うものです。
属性、あるいは属性の集合からなる事物は変わり続けているのです。
時間ごとに事物が違うものになっていると考えるとなぜ異なっているものを同一の事物として扱っているのかが問題になります。
変化してもそれを同一のものとして見なすことを差延と言います。
属性と言う差異は変化しますが、時間の経過があるにもかかわらず同一のものとして見ることです。
差延は直感的で体験的で自然な我々の感覚によく合っています。
事物の同一性や恒常性という考え方ともあっています。
ただ同一性や恒常性は根本的に考えると根拠がありません。
証明も実証も検証も出来ないのでそれは仮定や仮説に過ぎずに厳密な学問ではそれを自明の前提とするのは間違いです。
これが現代哲学の同一性批判と同一性にかわる我々が変化しているある物事を継続的に同じものとして見てしまう性質を説明する概念になります。
例えば自己同一性です。
自己と言うのは瞬間毎に変化していますし、赤ちゃんの時と老人になってからでは同じ存在とは言えないかもしれません。
しかし我々はそれを同じ人と感じます。
自己同一性というものがある根拠は厳密に考えるとないのです。
おわりに
構造主義は形式主義ですので記号的な要素とその要素間の関係性だけで記述されます。
別々の要素を扱うには要素間の差異が必要で普通は別の記号を使えば十分です。
逆に別の記号が充てられているものでもそれ以外の要素との関係が全く同じであれば同一のものとみなしてしまってもいい場合もあり、論理学では同一律などとして使われています。
ジャックデリダは構造主義的世界観を「差異の体系」と呼びましたが、従来型の哲学は「実体の体系」とも言えるでしょうか。
「実体がまずあり、実体には属性があり、属性の違いにより実体同士に差異があることを認識する」というのが従来的な考え方であれば構造主義的な考え方は「対象に色々な属性の差異があり、属性の差異ゆえに個性やリアリティが生じて実在や実体と言う考え方を生む」と言う風に捉えられます。
属性とは感覚で捉えられたり観念的に認識されたりする対象の性質です。
計算機科学の創始者たちであるライプニッツやチューリングなどが生きている時には見られなかった景色、構造主義的世界は現在は工学、技術、生産性、産業の発展によりコンピュータや通信技術が作られ大量の情報を保存し通信し情報処理することで現実の世界に生活と密着して実現しています。
昔と違って文明の発達と圧倒的な人類のあらゆる部分の進歩により構造主義的世界は現実に我々の生活に必須な形で観念だけではなく具体的に実現して構造主義的世界の実例となっていますので構造主義を理解するには有利な環境です。
プログラミングやコンピュータサイエンスから構造主義を勉強してみるのもいいでしょう。(字数:5.586字)