わがままが言えないのは私たちの中に「ふつう幻想」が潜んでいるから
突然ですが、『わがまま』って言えますか?
『わがまま』にも色んなものがありますし、言う・言われる場所も様々ですよね。
わたしの場合は歳を重ねるにつれて少しだけ『わがまま』を、「聞いてもらえるカタチ」で表現できるようになってきたかもしれません。
若い頃は「わがまま」を言えなくて、内面にがっつり溜め込むタイプでした。
そこから色んな人と関わっていく中で「わがままをいうことは決して悪ではない」ということを知り、必要だと思う時は「わがまま」をいえるようになりました。
しかし、その「必要だと思う」のスケールも個人差がありますよね。
どんな時はよくてどんな時はダメなのか?
どんなわがままなら言っても許されるのか?
その細かいニュアンスが他人と完全に一致しないこと、自分でもよくわからないことから、私たちは「わがまま」を言うことをためらってしまいます。
わたしも「わがまま」が言えるようになったとしても、ダメな「わがまま」、そしてダメな「わがままの伝え方」でたくさん失敗もしました。
さらに、他人のわがままをどこまで聞いてあげればいいのか?も、微妙なラインになりますよね。
今回読んだ「みんなの『わがまま』入門」は、決して「もっとわがまま言おうぜ!!」と主張するようなものではなく、『わがまま』の価値や意義について考えた上で、自分や他人の『わがまま』に対する反応の仕方を少し変えて行こう!と呼びかけるような内容になっています。
今日は、こちらの本からわたしが特に気になった所や感銘を受けた箇所などをピックアップしながら、本の内容をご紹介してみようと思います。
わがままって自己中じゃない?
「わがまま」って聞くと、自己中というようなネガティブなイメージがありますよね。普段「わがまま」と思ってしまう人種ってどんな人がいるでしょうか。
①自分の違和感を大々的に表現する人
②自分の権利を主張する人
③素直に意見や不満を口に出す人
ざっくりとこのような感じでしょうか。
わたしの場合、この中だと・・・全部言っているかもしれません(汗
そもそも「ずるい」とか「わがまま」ってなぜ出てくるのでしょう?
著者は次のように言っています。
ずるい・・・自分と他人が平等に扱われていないことを理不尽に感じること。
わがまま(自己中)・・・周りのことを考えず、自分のしたいように行動している人を見て感じること。
そしてこれらの思いの根底には、みんな一緒・みんな平等であるべき!という考えが存在するということなのですね。
確かに、世間的な視点からすると「わがまま」に見える人に非難を浴びせてる人たちを観察していると、表層にある正義感の裏には、自分がそのように振る舞えないことに対する羨ましさみたいな感情が垣間見えます。
わたしはどちらかというと「わがまま」を言える側なので、自分がしていることに対して何か言われれば「あなたも好きにすればいいじゃない」と言いたくなる場面も度々ありました。
では、私たちが「ふつう」だと思っているものの正体って何なんでしょう?
ふつうってなに?
一般的に言われる「ふつう」という概念ですが、「ふつう」という概念や価値観も、視点や立場が変われば簡単に変わるものですよね。
「ふつう」の正体。
それは、一人一人が周囲に合わせるように我慢をしたり、悩みを言わなかったり、自分について語らなかったりする「相当な努力の上」で成り立っているものなんだよ、と著者はいいます。
確かに。みんなが表に出していないことがあって、見えている部分だけを共有して「ふつう」と振り分けていますよね。
グローバル化により「個人化」と「ふつう」がごちゃまぜに
スマホを使うことが当たり前になりつつある昨今ですが、身体を移動させなくとも全国の情報だけでなく、世界の情報までもがカンタンに取得できるようになりました。
SNSを通じて他国の人と繋がることも簡単になり、グローバル化の勢いは増していく一方です。
そんな中、スマホの使い方1つとっても様々であり、メールや電話ができればいいという連絡手段のみに使う人、ゲームや動画を見るのが主になっている人、積極的に自分の知りたいことのためにあらゆる情報を取りに行く人など、そういった使い方からつながる「ふつう」の価値観も大きく枝分かれしていきます。
多様化が進むということは「個人化」が進むことになり、それぞれの価値観という「個」がクローズアップされるため、隣にいる人の痛みを分かち合うことも難しくなっていきます。
このように、「個」がクローズアップされるのだけども、私たちはいまだに親世代から受け継いだ「ふつう」の概念も意識の中に残っているため、どちらに従うのがいいのか混乱してしまうのかもしれません。
アウトなわがまま・セーフなわがまま
じゃあ何だったらわがまま言ってもいいの?
ってなりますよね。
しかしこの判断もわがままを「言う人」と「聞く人」の常識や倫理観が
大きく関与してきます。
大体の場合、自分が理解できないものがアウトなわがままとして認識されます。
しかし、過激な表現の「わがまま」を言う人に目を向けてみた場合、
もしかすると「始めは1つの〝要求〟として言っていたけど、ずっと聞いてもらえなかった」場合に、堰を切ったようにワッと出してしまうのかもしれません。
あるいは、「伝え方がうまくできないから」なのかもしれません。
わがままをクリエイティブに昇華させる
今では全国各地でたくさん開催されている野外フェス。
わたしは恥ずかしながら知らなかったのですが、著者曰くこの野外フェスも、
「何もかもお金で解決できる便利な都市から離れて、音楽をお金で消費するものではなく、純粋に楽しもう!」という試みから始まったそうです。
好きなものを好きという。
自分が関心のあることを言葉にする。
これらの行為は、「わがまま」をいうための土台作りになるのかもしれません。
「わがまま」が言いづらい方、「わがまま」の意義を深めてより良いコミュニケーションや社会活動に取り組みたいなと思った方は、ぜひこちらの本を手にとってみてくださいね。
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