前回の続きを書こう。前回は筋トレ面の描写に注目したので、今回は主人公U野やジェンダー面の描写に注目したい。
主人公U野は所属するトレーニングジムの勧めで、ボディビルの大会であるBB大会へ出場することになり、トレーニングに励んでいた。また、減量や栄養摂取に特化した食事を実践していた。
ところが、所属するジムのコーチであるE藤に、大会への出場には筋肉や肉体面以外の準備が必要なことを様々教え込まれる。U野はそれに従い、戸惑いながらも様々な準備を進めていく。
U野は大会で好印象を得るための準備として髪を伸ばし、ピアス、ハイヒール、脱毛、日焼けと準備を進めた。ボディビルが身体だけの競技でないということがよく伝わってくる。だが、それらを進める内に周りの反応が気になってくる。同僚には「女性は大変だ」と言われ、家族には「女なのに」という旨のことを言われる。
それからU野はボディビルや大会に違和感を抱くようになる。これだけ頑張って準備してきたにも関わらず、掛けられるのは否定的な声、それも「女は」「女なのに」という声ばかりだ。U野は自分の思う「トレーニング」や「美しさ」「女性」について考え始める。
ボディビルとは身体の美しさで評価されるものだと思っていたU野にとってはBB大会への準備の過程は納得できるものではなかった。アクセサリーをつけて(半ば強制的に)、ポーズを決めて、笑顔を作るといった部分は筋肉や身体とは関係が無い部分だ。それどころか、そういった部分を以てして「女らしく」振舞わねばならないという強制に不満を持ったのだ。なぜ、ボディビルなのに筋肉や肉体美のみで評価してくれないのか、様々な努力をして「女」であるという側面も見せつけないといけないのかという思いに駆られる。
筋肉を競う競技であるのに、無理矢理に作られたモノやジェンダーアピールが存在することはU野には到底受け入れがたいことであった。そういったある意味、不純な仕組みに嫌悪感を抱いたのである。
そして大会の当日、U野は、他選手の失格もあってファイナリストに残る。そこで彼女は、本当の意味での、肉体だけの勝負に挑むのであった。
筋トレとジェンダー問題を絡めた、コミカルで軽い文体ながらも考えさせられる内容になっている。ダイエットのために筋トレを勧められた女性が「ムキムキになりたくない」と言う場面をよく見かけるが、そんな簡単に女性はムキムキになれない。
それは女性ホルモンの分泌の都合だそうだが、ムキムキになれるほど努力できる女性もそう多くは無いだろう。そう考えると、女性ボディビルダーは尊い。彼女らは鍛え上げた肉体で勝負する。だが、そこには一定の女性らしさが暗に求められている。誰もがハイヒールを履いて、厚化粧をして、アクセサリーを着用している。外から彼女らを見る我々はどこか、その筋肉だけでなく、女性的な華やかさもそこに求めてしまっている。
それこそがまさにU野を通してこの作品が伝えたかったことなのだと思う。確かに化粧やアクセサリーがあれば華やかには見える。だが、その分鍛え上げた肉体への注目度は必ず低下する。「ボディビルなのだったら、肉体だけで勝負せいっ」と石田氏は思っているのだと思う。
また、少し話は逸れるがP107の引用部分に「セックス」という単語が出てくる。別に「セックス」を用いなくても十分に表現できる部分である。この前読んだ芥川賞の『ブラックボックス』にも性描写の場面があるが、これは不思議に感じる。巷では「セックス」や「性」は隠されるべきモノという風潮があってあまり出てくることが無い。だが、文学作品にはけっこう頻繁に出てくる。
性描写はテレビ等からはすっかり消えてしまったが、文学には普通に出てくるのは面白い。もしくは、性描写を書くためにこそ、文学は存在しているのだろうか。わからないが、性描写というのは、下ネタとかそういうのではなく、文学において大切な要素なのだと文学素人の私は改めて感じた。
石田夏穂『我が友、スミス』(2022) 集英社