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石田夏穂『我が友、スミス』②

前回の続きを書こう。前回は筋トレ面の描写に注目したので、今回は主人公U野やジェンダー面の描写に注目したい。


主人公U野は所属するトレーニングジムの勧めで、ボディビルの大会であるBB大会へ出場することになり、トレーニングに励んでいた。また、減量や栄養摂取に特化した食事を実践していた。

ところが、所属するジムのコーチであるE藤に、大会への出場には筋肉や肉体面以外の準備が必要なことを様々教え込まれる。U野はそれに従い、戸惑いながらも様々な準備を進めていく。

大会出場には、ステートメント・ピアスが必要だった。(P56)

ちなみにステートメント・ピアスとは、つまるところ、でっかいピアスのことだ。(P57)

私の目は、とんでもない節穴だった。歴代選手の写真を見れば、大会準備は身体のコンディショニングに留まる話じゃないと、猿でもわかるというのに。私の目は、見事に筋肉しか見ていなかった。然るべき計画と技術の下に筋トレすれば、勝利に近づけるのだと思った。 ボディ・ビルは、筋肉だけで終わる話じゃない(P58)

ボディ・ビルでは、肌の美しさも審査対象だ。が、保湿の「ほ」の字も化粧水の「け」の字も心得ぬ私がまず着手すべきだったのは、無駄毛の処理だった。(P58)

タンニング・マシンもとい日焼けマシンの中に立った私は、久々にうとうとしていたかもしれない。説明するまでもなく、日焼けした方が身体は引き締まって見える。さらに、ステージでは、何十台のカメラに晒されることになるが、肌が白いと、筋肉のカットやセパレーションが、フラッシュの白光に負けてしまうのである。BB大会で求められるのは所謂「美白」ではなく、ブロンズ色の肌だった。(P63)

U野は大会で好印象を得るための準備として髪を伸ばし、ピアス、ハイヒール、脱毛、日焼けと準備を進めた。ボディビルが身体だけの競技でないということがよく伝わってくる。だが、それらを進める内に周りの反応が気になってくる。同僚には「女性は大変だ」と言われ、家族には「女なのに」という旨のことを言われる。

「U野さん、最近忙しそうですね。何かあるんですか?」「おい、セクハラだぞ」その同僚が問うと、隣の島にいた別の同僚が茶々を入れた。二人とも午後五時からスイッチが入る体質らしく、飲み屋街のように日が暮れ始めると活力を示すのだった。ほら、U野さんとかはさ、ダイエットとか髪とか顔とか肌とか、いろいろやらなきゃいけないことが多いんだって。俺たちとは違うんだよ。確か、そういう文脈で発生した「女性は大変ですね」だった。その考察に私が然したるコメントを返さなかったせいかもしれないが、私が傍聴する二人の他愛ない遣り取りは、いみじくも「女性は大変ですね」で総括された。私は、大変なのだろうか。わからない。(P79)

「だって女の人が、あんなに鍛えちゃ変じゃない」「別に全然変じゃない」(P98)

遂に、私は吠えた。「あのねえっ、運動とか一切しないお母さんにはわかりっこないけど、こういう風になりたくても簡単にはなれないんだよっ」なれるもんならなってみてえよっ。(P100)

それからU野はボディビルや大会に違和感を抱くようになる。これだけ頑張って準備してきたにも関わらず、掛けられるのは否定的な声、それも「女は」「女なのに」という声ばかりだ。U野は自分の思う「トレーニング」や「美しさ」「女性」について考え始める。

 黙々とトレーニングする間、私は幸せだった。その実感が日に日に高まるのは、ここに来て、私が競技の内情を理解しつつあるからだった。全貌が見えてくると、この競技に自分が向いていないことは明らかだった。
 ステージが求めるものを、私はいちいち教えられ、納得し、意識し、練習しなければ自分のものにできなかった。ポージング・レッスンで散々叩き込まれた、鍛えた体を第三者に向け発信するための、最低限のテクニックである。それらを死に物狂いで自分のものにした気になっている私だが、やはり、そうしたテクニックの本質は主体性にあるのだろう。それらは人に言われて実践するものではなく、極論すれば、人に教えて貰うものでさえないのだ、そうした真の主体性に比べれば、私の身につけたものは小手先以下の下手な演技に過ぎなかった。事実、レッスンの間、私は常にやらされている感と共にあった。(P106-107)

 私は、人工の笑顔を否定しているのではなかった。が、表情には実際以上の意味が与えられ過ぎている気がする。笑顔の人は幸せだと決めつけるのは、セックスしたから愛してると同じくらい純心が過ぎる。笑顔じゃない人を不機嫌とか不遜とか不幸と決めつけるのは、まあわからないことでもないが、私からすれば、ちょっと待ってくださいという感じだ。笑顔至上主義の世の中ではあるが、カメラの前でも他の如何なる場面でも表情が語らないことは多分にあるはずだ。(P107-108)

「でも、何と言うか、ハイヒールとか脱毛とか日焼けとかは、わかるんです。ハイヒールを履いたほうが脚が長く見える。脱毛した方が、カットの輪郭がくっきり見える。日焼けしたほうが、全身が締まって見える。だけど、笑顔を作るとか、いちいち優雅なポーズをするとか、デカいアクセサリーをつけるとか、歌舞伎役者みたいに化粧をするとか、そういうのは、何と言うか、筋肉とは関係ないですよねっ?」(P109)

 なあ、母ちゃん。先日はすまなかった。だが、あなたが「女らしくない」と評したボディ・ビルはそうじゃないのだよ。この競技は世間と同等か、それ以上にジェンダーを意識させる場なのだ。「女らしさ」の追求を、ここまで要求される場を、私は他に知らない。人はボディ・ビルを「裸一貫で戦う」競技と見做し、その潔さを称える。ところが、そんな賞賛に、私は鼻白んでしまうのだ。(P110)

ボディビルとは身体の美しさで評価されるものだと思っていたU野にとってはBB大会への準備の過程は納得できるものではなかった。アクセサリーをつけて(半ば強制的に)、ポーズを決めて、笑顔を作るといった部分は筋肉や身体とは関係が無い部分だ。それどころか、そういった部分を以てして「女らしく」振舞わねばならないという強制に不満を持ったのだ。なぜ、ボディビルなのに筋肉や肉体美のみで評価してくれないのか、様々な努力をして「女」であるという側面も見せつけないといけないのかという思いに駆られる。

筋肉を競う競技であるのに、無理矢理に作られたモノやジェンダーアピールが存在することはU野には到底受け入れがたいことであった。そういったある意味、不純な仕組みに嫌悪感を抱いたのである。

そして大会の当日、U野は、他選手の失格もあってファイナリストに残る。そこで彼女は、本当の意味での、肉体だけの勝負に挑むのであった。

 スタッフは合図すると、先頭の選手が動き出した。私は足首をぶんぶん振り回し、ハイヒールを脇へ脱ぎ捨てると、裸足になり、それに続いた。歩きながら、ついでにピアスも外した。驚いたのか、後ろの選手が立ち止まった。しかし、すぐに気を取り直すと後に続いた。びっくりさせて、申し訳ない。(P133)


筋トレとジェンダー問題を絡めた、コミカルで軽い文体ながらも考えさせられる内容になっている。ダイエットのために筋トレを勧められた女性が「ムキムキになりたくない」と言う場面をよく見かけるが、そんな簡単に女性はムキムキになれない。

それは女性ホルモンの分泌の都合だそうだが、ムキムキになれるほど努力できる女性もそう多くは無いだろう。そう考えると、女性ボディビルダーは尊い。彼女らは鍛え上げた肉体で勝負する。だが、そこには一定の女性らしさが暗に求められている。誰もがハイヒールを履いて、厚化粧をして、アクセサリーを着用している。外から彼女らを見る我々はどこか、その筋肉だけでなく、女性的な華やかさもそこに求めてしまっている。

それこそがまさにU野を通してこの作品が伝えたかったことなのだと思う。確かに化粧やアクセサリーがあれば華やかには見える。だが、その分鍛え上げた肉体への注目度は必ず低下する。「ボディビルなのだったら、肉体だけで勝負せいっ」と石田氏は思っているのだと思う。

また、少し話は逸れるがP107の引用部分に「セックス」という単語が出てくる。別に「セックス」を用いなくても十分に表現できる部分である。この前読んだ芥川賞の『ブラックボックス』にも性描写の場面があるが、これは不思議に感じる。巷では「セックス」「性」は隠されるべきモノという風潮があってあまり出てくることが無い。だが、文学作品にはけっこう頻繁に出てくる。

性描写はテレビ等からはすっかり消えてしまったが、文学には普通に出てくるのは面白い。もしくは、性描写を書くためにこそ、文学は存在しているのだろうか。わからないが、性描写というのは、下ネタとかそういうのではなく、文学において大切な要素なのだと文学素人の私は改めて感じた。


石田夏穂『我が友、スミス』(2022) 集英社


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