過去に存在する自分の“加害性”との対峙(小説「ブルーマリッジ」を読んで)
あの人が今の自分の発言や投稿を読んだらどう思うのだろうか。過去の自分の行動は、批判する自分にそのままブーメランとして返ってくるのではないか。
フェミニズムやジェンダーについて学ぶようになって、この社会に存在するマチズモや男性優位主義的な価値観に対して嫌悪感を抱くようになった。その分、明確に受け付けたくない著名人や作品も増えた。せめて、自分はよくありたいと思いジェンダーに関する本を頻繁に読んだ。
しかし、学ぶことによって自分の知識や考え方を改めるほど、過去の自分の行いや見過ごしたことが人を傷つける行為だったのではないかと思い返してしまう。過去に交際していた人に対してかけた言葉、行動。そのときは「これくらい」と思っていたことが、もしかしたら相手にとっては尊厳を傷つけられて根深く残っているのではないか。あるいは、相手も「そんなもの」と思っていたとしても、世間の尺度に照らしてそんなものと思っていただけでモヤモヤとしてたのではないか。
過去、気づかないうちに振り翳していた加害性を見つめて、自分はこれからどう生きていけばいいのだろうかと悩むようになった。
カツセマサヒコさんの小説「ブルーマリッジ」は、まさに自分が思い悩んでいた過去と重なる物語だった。20代前半の「こんなはずじゃなかった」と葛藤する若者たちを描いた小説「明け方の若者たち」を書いたカツセさんの新刊となる本作。
自らのもつ加害性に気づかないままに生きてきた人。その加害に苦しめられてきた人。課題意識をもちながらも実は過去に加害に加担したり、見過ごしていた人がそれぞれに描かれる。
自分がとくに突き刺さったのは、ジェンダー問題に対して課題意識をもつ主人公が婚約者から過去の言動や行動について問い詰められる描写である。
過去に接した人たちを思い浮かべては罪の意識が自らに刺さった。
学べば学ぶほど、自分はマチズモやホモソーシャルな価値観からは遠いと思いたくなるのだけれど、完全に棚へ上げて語ることなどできない。自分だって過去には酷いことを言ったことがあるし、自らの情けなさゆえに女性を傷つけたこともある(詳細は自分の中だけに留めておきたいので抽象的になってしまうが)。
自分もまた、この男性優位社会の中で下駄を履くことに無自覚なひとりの男性だ。それを消し去って、自分が理解のある人として振る舞うのはどこか居心地が悪い。
考えすぎなのかもしれない。あるいは、それすらも罪悪感に酔いしれているのかもしれない。段々とどんな態度でいればいいのか分からなくなってくる。
一つだけ言えるのは、学ぶ中で浮き彫りになった過去の自分が人を傷つけた事実も記憶も消えはしない。向き合い方という以前に、それはひたすら対峙することが必要だと思う。
その上で、これからも一つ一つ学んで、語り合って。価値観を変化させていきたい。