人生経験は顔に出るのか4
人生経験は顔に出るのか、について続きを述べていきます。
前回までで、目元と口元に出るのでは、と仮説を立てました。
また、凝視と寡黙の累積によりそうなるのでは、と結論づけてみました。
今回は、口元に焦点を当て、もう少し深く探っていくこととします。
真一文字の口には2種類ある
真一文字の口には2種類あります。
良い意味の真一文字が、渡哲也さんが演じている貫禄ある武将。
悪い意味の真一文字が、アイヒマンのように幼く老いた老人。
どこで違いが出てくるか、と言うと、判断と忖度の違い、となります。
戦国の足軽も戦中の兵士も、報告しにきただけのこと。報告者であることに変わりはありません。
そこで足軽を凝視し、観察し、視覚情報を出来る限り得ながら、脳内情報を検索し、判断や実行に繋げていくと、貫禄ある大物になっていきます。
一方で兵士を凝視することもなく、その内容にはこれ、と当てはめていくだけの作業をやっていると、貫禄が無い、地位と肩書だけはある作業員となるのでしょう。
良い真一文字になるためには
良い真一文字になるためのヒントを、私が会った超大物国会議員から探っていこうと思います。
選挙期間に偶々、至近距離でお会いしたのですが、雰囲気がもう普通の議員とは違いますね。
私が思わず「本物だ。」とつい口にしてしまったぐらいです。
それを聞いた超大物は破顔一笑。
「ハッハッハ!偽物は来ないよ!」
思いきり笑う姿に強く貫禄を感じました。
この方に限らず、超大物は心の底から笑う傾向があります。例外が思いつきません。
笑える時には笑っている、それが超大物です。
漫画的な表現で考えてください。
大物はガハハと笑いませんか。
小物はへへへと笑いませんか。
老害はそもそも笑うところが一切思い浮かばないと思いませんか。
思いきり笑うことが出来る状況に身を置き続けると貫禄がついてくる、なのか。
思いきり笑うことが許されるところにまでその身を持っていくと、貫禄があると考えるべきか。
そこはわかりませんが、超大物は、喜怒哀楽の幅が広いというのは確かです。
喜怒哀楽を思いきり出す機会に、数多く恵まれていると貫禄が出てくる、というのはある気がしてきますね。
感情の起伏が多く、かつ、その感情の発露の機会が多く、顔の表情筋が鍛えられている状態が貫禄である、という結論になりますね。
顔は元々が童顔であるか老け顔であるかによって違いがありますが、昭和の俳優は揃いも揃って、だいたい貫禄がありました。
昭和はまだ皺を嫌う文化でなかった、というのを差し引いても、感情の発露、その機会に恵まれていたからだ、と見ると整合性がありそうです。
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連続記事5つのうち、今回は4つ目です。