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人生経験は顔に出るのか3

人生経験は顔に出るのか、について思索してみたので、続きを述べていきます。
前回ではまとめきれなかった、貫禄のある顔とはどういうものかについてです。

顔のどこに出るのか

貫禄のある顔と貫禄の無い顔との違いは、どこに出るか。
昭和の石原軍団の顔と令和の男性俳優の顔は何が違うのか。
完全な私見を言うと、違いは目元と口元です。

髪型には出ません。
時代劇を見て、渡哲也さんが織田信長役をすると貫禄がある気がしませんか。
髪型はあくまでも寝癖などで減点対象となるだけで、貫禄の加点対象ではないのです。
オシャレか否かの加点や減点と、貫禄についての判断基準は、ごちゃ混ぜにしてはいけません。

額にも出ません。
額の皺は、老いた少年のような幼さを残すジジイにもあるので、額ではないのです。

耳にも出ません。
福耳であろうがなかろうが、貫禄のある顔なのかどうかとは別問題です。

髭は微妙なところ。
明治時代の薩長の人には貫禄がありますが、かと言って、現代の髭の人はオシャレ星人だなと思うだけで貫禄とは違うかなと思います。

目元について

貫禄のある人はやはり目元が違います。
眼光が鋭い人は貫禄がありますね。

ただ、眼光が鋭いだけでは貫禄とはなりません。
睨みつけているだけの人に貫禄がありますか。

畏れ多い方の眼光が鋭いのは確かですが、一方、恐ろしい人の眼光も鋭いのです。
畏怖の対象も、そして、恐怖の対象も眼光は鋭いのです。

口元について

目元の話から一旦口元の話に移りましょう。
口元はわかりやすいですね。

貫禄の無い人は、口が半開きであることが多い。
秋葉原の人は口が半開きであるため、貫禄が無い印象となるのです。

一方、貫禄がある人の口元は、真一文字。
真一文字か、もしくは、への字か、そのどちらかであると思います。
凛とした、キリッとした印象は、口元から生じる気がしますね。

ただ、口を閉じているだけの人に、貫禄があるかどうかというと、それは違う気がします。

では本題

ここまで思索して、概ねの見当がつきました。
凝視と寡黙です。

睨むだけなら不良少年でもできます。
沈黙だけなら誰でもできます。

貫禄のある大物は、凝視して一言喋る。
※私のイメージです。

相手の話をしっかりと聞き、その上で、何らかの思考過程を踏み、そして一言喋る。
「全軍に伝えよ!何々!」
「総員に伝えよ!何々!」
これがカッコイイ貫禄のある大物です。

何々に該当するものは出陣や出撃に限りません。
全軍退却や総員撤退でもカッコイイものです。

これが「大殿は何と仰せか。」だとダサイです。
「家老は何と言うておるか。」でもダサイ。
忖度でなく判断。判断がカッコイイのです。

貫禄のある大物は、報告者を凝視しているから、眼光が鋭く、しかも、途中で口を挟まないから、そして、一言で全員が動くからこそ、大物は口が真一文字な時間が多くなるのです。

口が真一文字なのは、良い報告も悪い報告も聞くことにしているから。
予め風通しの良い職場環境をつくっておかないと、悪い報告は来ません。
イエスマンに囲まれているようでは、苦境にあるという報告がこないので、全軍退却や総員撤退といった判断ができないので、滅びます。

まとめ

まとまりました。良かった良かった。
私が言いたいのは渡哲也さんが大物俳優だということではありません。
貫禄のある大物は、凝視と寡黙で顔に貫禄が滲み出てくるということです。
凝視、観察、傾聴、黙考、判断の積み重ねが顔に滲み出るというのが、今回の結論です。

次回は、私が会ったことがある超大物国会議員の話にしようかなと思います。

#最近の学び

連続記事5つのうち、今回は3つ目です。

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