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「わが日本古より今に至るまで哲学なし@一年有半」(中江兆民)

中江兆民をご紹介するのですが、特別深い意図はありません。かの中江兆民は日本には哲学がないと何故言い切ったのかについての興味と明治時代のゴチャゴチャした感じを当時のベストセラーの紹介を通じてご紹介しようというものです。
この中江兆民、日本史の授業ではよくてルソーを紹介したことで軽く触れられるか、板垣退助の自由民権運動の流れで、左寄りの先生が触れられる程度かなと思います。先生によっては、ひょっとしたら時間切れですっ飛ばされているかも知れませんね。近代史は政治的になりやすいし。なので多くの方にとっては「名前は聞いたことあるけど誰?」ってとこでしょう。
それはそれとして、余命あと1年半と宣告された中江兆民の渾身の絶筆であり、ホンネが語られている遺書のようなものと思うと興味深いです。
最後に書きましたが、自由民権運動も「個人」を「政府」と対立した形で置くので、最後はグローバリズムにつながってしまうようです。二項対立は西欧的思考で、日本では例えば天照大神と天皇と臣民は対立していません。なので、私は中江兆民の主張にはあまり賛成できません。
やはり地獄への道は善意で舗装されています。

では、引用しつつ、底本は岩波文庫版です。少々読みにくいのですが、2回目には読みやすくなります。これは続編の「続一年有半」と合わさったもので、半分近くは「注」となっていて、ここも興味深かった。

◇一年有半・続一年有半 (岩波文庫 青 110-3)
https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%80%E5%B9%B4%E6%9C
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■政治家の腐敗
「官民上下貧に苦しむ、是において乎およそ施為皆姑息これ事とし、人情日々に菲薄にして、内閣は復た一国経綸の造出所にはあらずして、箇々利慾を貪り権勢を弄ぶ最高等最便利の階段なり。(中略)衆議院とは何ぞこれ復はいうに及ばず、直ちにこれ餓虎の一団体なるのみ。」

⇒今と変わらないですね。

■節操のないマスコミ
「いはゆる一国如狂もの耶、何ぞ我が邦人の軽浮にして沈重の態に乏しき耶。生ける星は追剥盗賊にして、死せる星は偉人傑士なり、是非毀誉の常なき一に此に至る。」

⇒同士でもあった星亨が刺殺された際の報道を見て「生前は追剥か盗賊のように罵倒しておいて、死んだら偉人傑士だと。何と節操のないこと」と憤慨している。

■中産階級以上にロクな奴はいない
「今やわが邦中産以上の人物は、皆横着の標本なり、ヅウヅウ(図々)しき小人の模範なり。余近時において真面目なる人物、横着ならざる人物、ヅウヅウしかざる人物ただ両人を見たり。曰く、井上毅、曰く白根専一。今は即ち亡し。」

⇒今や中産階級以上にはロクな奴はいない。最近でまともなのは井上毅と白根専一ぐらいしかいないが、2人とも鬼籍に入ってしまった。惜しいことだと嘆く兆民先生。

■日本には哲学がない。それが問題(1)
「わが日本古より今に至るまで哲学なし。本居篤胤(宣長)の徒は古陵を探り、古辞を修むる一種の考古家に過ぎず、天地性命の理に至てはぼう焉たり。(伊藤)仁斎(荻生)徂徠 の徒、経説につき新意を出せしことあるも、要、経学者たるのみ。ただ仏教僧中創意を発して、開山作仏の功を遂げたるものなきにあらざるも、これ終に宗教家範囲の事にて、純然たる哲学にあらず。近日は加藤某(弘之)、井上某(哲二郎)、自ら標榜して哲学者と為し、世人もまたあるいはこれを許すといへども、その実は己が学習せし所の泰西某々の論説をそのまま輸入し、いはゆる崑崙に箇の棗を呑めるもの(≒論語読みの論語知らず)、哲学者と称するに足らず。(中略)カントやデカルトや実に独仏の誇りなり、二国床の間の懸物なり、二国人民の品位において自ら関係なきを得ず、これ閑是非にして閑是非にあらず。哲学なき人民は、何事を為すも深遠の意なくして、浅薄を免れず。」

⇒「わが日本古より今に至るまで哲学なし」というこの言葉は中江兆民に言葉の中でももっとも有名なものの1つだと思います。ここで言う「哲学」とはどういうものでしょうか。続けてみていきますと、本居宣長や平田篤胤は、「天地性命の理」を明らかにできていないないし、伊藤仁斎や荻生徂徠も、中国古典の解説者に過ぎない。仏教僧侶には何人か合格者がいるようだが(名前は挙げられていない)仏教の中に留まっているだけ。最近では加藤弘之や井上哲二郎も自ら哲学者と名乗っていて、世間でもそう見られているようだが、実際はヨーロッパの論説をそのまま紹介している輩で、とても哲学者とは言えないとボコボコ。

⇒「性命の理」は、「人の性、天の命を貫く理」ということらしいのですが、中江兆民は唯物論者(肉体が死ぬと意識も死ぬ)なので、西洋哲学ではなく、朱子学でいう「理」もしくは仏教でいう「法(ダルマ)」に近いものかなと思っています。

■日本には哲学がない。それが問題(2)
「カントやデカルトはドイツ・フランスの誇りである。哲学など国柄と関係なさそうに思えるが、ところがどっこい、哲学のない国民は何をしても底が浅いものである。」

■日本には哲学がない。それが問題(3)
「わが邦人これを海外諸国に視るに、極めて事理に明に、善く時の必要に従ひ推移して、絶て頑固の態なし、これわが歴史に西洋諸国の如く、悲惨にして愚冥なる宗教の争ひなき所以なり。明治中興の業、ほとんど刃に血塗らずして成り、三百諸侯先を争ふて土地政権を納上し遅疑せざる所以なり。旧来の風習を一変してこれを洋風に改めて、絶て顧籍(=惜しむ)せざる所以なり。而してその浮躁軽薄の大病根も、また正に此にあり。その薄志弱行の大病根も、また正に此にあり。その独造の哲学なく、政治において主義なく、党争において継続なき、その因実は此にあり。これ一種小怜悧、小巧智にして、而して偉業を建立するに不適当なる所以なり、極めて常識に富める民なり、常識以上に挺出することは到底望むべからざるなり。すみやかに教育の根本を改革して、死学者よりも活人民を打出するに務むる要するは、これがためのみ」

⇒日本人があまり拘りを持たないのは、西欧のような宗教戦争がなかったから。版籍奉還などは300もの諸侯が我先に藩の財産を中央政府に返納するなど、明治維新がほぼ無血で行われたのそれが理由。過去の風習を捨てて一気に西洋化して気にかけない軽薄さも同様。独自の哲学がないことで、確固たる根拠を持つ主義・主張が出来ないので、目先にとらわれてしまい、議論も曖昧にフニャフニャとなってしまう。小賢しい知恵はあるが、大きな偉業はできまい。常識はあるが、常識以上のことはできまい。これではいけないと兆民先生は嘆くのです。何か「オルテガの大衆」を思い起こします。宗教はこれまでとてつもない数の虐殺を行ったので、宗教戦争などなかったことは日本とっては幸せだったのではないかと思います。

■明治の元勲?これもロクなのがいない
長くなるので引用は控えますが、明治の元勲たちも兆民先生にかかればボコボコです。
・伊藤博文は法律制度を作った功績は認めるが、一言で言えば、多少弁が立つ事務屋に過ぎず、総理大臣になっても失敗ばかりであった。
・大隈重信は愛すべき人だが、目先ばかりで首相の器ではない。在野の相場師が似合っている。
・山県有朋は悪賢いだけ、松方正義は愚か者、西郷隆盛は臆病者、元老にはロクな奴がいない。
・伊藤博文以下、こんな連中は一日早く死ねば、国益が一日分増える。

⇒自由民権論者(明治政府が意図する絶対主義風天皇制国家に対し、民主主義的な立憲制国家をつくろうとした)だった中江兆民は、明治「維新」とはいうものの、結局は藩閥政治であって、支配者が徳川から薩長に変わっただけということで明治政府を批判し続けていた。
私は薩長に味方する訳ではないですが、国民の民度もまだ高くなかった時で、当時は列強の圧力もあり、いきなり民主主義というのも国家安全保障上難しいと思いうので、「民主主義ができてない」という理由で、元勲たちを責めるのは少々酷ではないかという気はします。

■お役所仕事
「わが邦の官吏、甚尊きが如くにして、その実は然らず。これ繁文(面倒な手続)の弊の生ずる所以なり。何を以てこれを言ふ、曰くかつ農商務の一省について言はん。既に山林、鉱山、商工等の局を設け各々これが長を置けり、しかも山林局長は独りその局の責に任ずるにあらずして、他の高等官もまた必ずその文書に捺印して以てどの責を分つ。これわが制たる各局長を猜ふて独りその責に任ぜしめず、即ち繁文の弊を生ずるも権を各長官に委せず、而して事務ために渋滞し日月ために曠過し、これが害を被むる者は人民なり。」

⇒責任分散(=無責任体質)の為に手続きを煩雑にし、スタンプラリーを強要し、事務が遅くなって迷惑を被るのは結局庶民である、という自由民権論者らしい主張です。この主張は今でもよくあるのすが、権力・責任に関しては、集中も分散もどっちもどっちの面があるので、もう少し丁寧な議論が必要だと感じています。

⇒引用は控えますが、この続きに、そもそも官吏は国民に為に税金で設置されているのに、国民からの要請を却下する時は偉そうにし、許可する時もあたかも恩恵を与えるように恩着せがましいことを訴えています。この辺は今も大筋は変わらずでしょう。

■口だけの連中が首尾よく作った今日に腐敗社会
「新聞記者の口吻もて言えば、わが邦には口の人、手の人多くして脳の人寡し。明治中興の初より口の人と手の人と相共に蠢動して、そのいはゆる進取の業を開帳し来れることここに三十余年にして、首尾能く今日の腐敗堕落の一社会を建成せり、わが日本人民何の天に罪かある。」

⇒深く考えもせず進取を気取って欧化政策を行ったことで、今日に腐敗堕落社会が出来上がった。このあたりは、やはりオルテガ「大衆の反逆」に似ています。今も同じ。

■汚職体質
「保護干渉、動もすれば官吏と当該商人と結託して私利を営むの弊あり」

⇒説明はいらないと思いますが、いつの時代も同じ。

■陳腐を「そんなん古い古い!」と吐き捨てる勿れ
「今の灰殻者流必ず言はん、陳腐聞くに堪へずと。然りおよそ理義の言は皆陳腐なり。これを言ふにおいて陳腐なるも、これを行ふにおいて新奇なり。かつ公らの陳腐とする所は、国家において皆極めて必要とする所なり」

⇒必要なことに古いも新しいもない。そこを見極めないと、単純な進歩主義は容易に道を誤る。


これぐらいにしますが、本書の後ろの方には自由・平等・博愛を訴えて、国境廃絶・戦争放棄・世界統一通貨、世界統一政府、世襲相続廃止など、今のグローバリストそのままの内容を「大志」として書かれています。自由民権は思想としては、グローバリズムへ流れていくのだなと思いました。

「地獄への道は善意で舗装されている」まさにそんな気がします。