【旅行記1】宮城ふらっと旅 with 3.11
投稿日:2023年6月17日(土)
ご覧いただきありがとうございます!
愛知県に住む大学生のかみりょうです!
※自己紹介投稿ありますので、
是非ご覧ください!
自己紹介はこちらから!
今回は
①宮城ふらっと旅 with 3.11
国内旅行 宮城編です!!
なぜ宮城?とか
なぜ国内?とか
色々疑問が浮かびそうではありますが、笑
今回も最後まで読んでいただけますと幸いです
3000字という長文です
それではいってみよ~!
0. 行き先を宮城県にした理由
46都道府県ある中でなぜ宮城なのか
いくつか理由はあります
航空会社のマイルを使う目的が
一番大きいですが、笑
ちゃんとした目的は
東日本大震災の事を
日本人として
しっかりと学んでおくべきだと
思ったからです!
私たち日本人の中でも、
現地で被災された方やご家族、
ご親戚の方々は
今でも鮮明に
覚えておられるでしょう
しかし、
そうじゃない方はどうでしょうか
3.11があったな〜
津波で大変だったな〜
福島の原発やばかったな〜
で終わっていませんか???
同じ日本人として
忘れているとかではなく、、
現地に行くから改めて
分かる
知る
があると思う
だから、
今回は宮城を選択しました
1. 旧野蒜小学校(KIBOTCHA)と震災復興伝承館
東松山市 野蒜地区に
行ってきました!
仙台から電車で1時間
野蒜駅
めっちゃ田舎やん
て思うかもしれませんが
はい、めっちゃ田舎です!笑笑
かみりょう(私)の地元も田舎ですが、、
それ以上に田舎ですね🙇♀️🙇♀️
コンビニもありません
この野蒜地区はかつて
東日本大震災で
多くの方が犠牲になりました
そんな野蒜には、
KIBOTCHA
と
東松島震災復興伝承館
があります
KIBOTCHAは、
旧東松島市立野蒜小学校です
旧野蒜小学校には
あの日
大きな津波が押し寄せた
といいます
KIBOTCHAには
主に3つの役割があります
KIBOTCHAは、
宿泊施設兼レストランとして
運営されています
そんなKIBOTCHAにある
森のキッチンを訪れたのですが、
まさかの休館日笑
まじか〜と思い
立ち尽くしていましたが
偶然地元の方が
声をかけていただき、、
震災当時の話をしていただきました
話の内容はここには書きません
書きたくないとかではなく、、
地元の方々の願いに反するからです
《地元の方の願い》
日本人なら誰もが一度は訪れて欲しい
そして、
私たちの経験を知って、
次の震災に活かして欲しいと
~~
同じく野蒜にある
東松島市震災復興伝承館にもお邪魔しました
2.震災から学んだことって何だろう
東日本大震災から学んだこと
現地の人に話を伺うと
色々な答えが返ってきました
しかし
全ての意見に含まれていた言葉がありました
・戻らない
・助け合う
・自分の命が一番
この3つの言葉
震災発生時
野蒜地区では、
津波が来るまで少し時間があったようです
(厳密には分かりませんが)
ほとんどの方が
高台や公民館等に避難をしていました
津波は運良く避難場所まで来る事はなかった
なのに
この地区でも
多くの人が亡くなっている
それは
誰かを助けようと家に戻った
愛犬が可哀想だから連れてくるために戻った
避難場所に行ったのに一度戻った方々です
避難場所から一度戻った方はほぼ全員
お亡くなりになったそうです
一度避難したら戻らない
これは念頭に置いておかなければいけません
いや、私は戻りませんよ〜
っていう人ほど戻る
避難先で、
誰か・何かを思い出す
大切な何かを思い出す
その瞬間、
人はそれに対しての意識のみになり、
周りが見えなくなり
地震・津波に対して
安易な考えが浮かぶのです
そして
人は思った通りに行動する
結果として
悲劇を生むのです
この章の最後に
現地の方に
とあるエピソードをお伝えしてもらったので
そのまま書いておきます
(当時その様子を鮮明に覚えている
おじいさんに話を伺うことができた)
東松島市立の中学校に勤務されていたA先生は、学校に残っていた生徒を避難させた
当時、授業が終わり部活動の時間であったので、自宅に帰った生徒などの安否は分からなかった
しかし、学校にいた生徒・教職員は
全員無事避難できたのだ
と、そこでA先生はとある事を思いつく
今日は金曜日
水泳部の活動の日だ
実はA先生は水泳部の顧問でもあった
水泳部は学校にプールがない為、沿岸部にある市民プールで練習している。
彼らはまだあそこにいるかも、、
彼らを助けに行かなければ、
その頃、沿岸部には既に津波が押し寄せていた
しかし、A先生がいた避難場所から
津波が来ている様子は見えなかったという
加えて、その避難場所にいた全員が
津波はまだ来ないと思っていた
A先生は市民プールへと走って
向かってしまったのだ
一方、水泳部の生徒は
押し寄せる津波を目の前に
既に別の避難場所に避難して、
なんとか津波から逃れていたのだ
A先生が避難場所を出て3分後津波が襲ってきた
なお、A先生は二度と避難場所に戻る事はなく
震災から数ヶ月後にご遺体で見つかったらしい
水泳部が活動していたプールの近くだったという
避難場所に
A先生と一緒に来た生徒が
最後に先生から聞いた言葉
教員はね、
子どもを救う事が第一の使命なの
A先生はこのように言っていたという
しかし
A先生は忘れていたのだ
自分の命という存在を
3.仙台市立荒浜小学校の今
荒浜地区は、
仙台から東に10km程離れた
太平洋沿岸部にある地域
この地区にある小学校
荒浜小学校
当時91人の児童が通っていた
この場所に
大津波が押し寄せました
今は、
荒浜の当時を伝える
震災遺構となっています
荒浜小学校には、
当時320人が避難した
学校の2F部分まで津波が押し寄せたという
今の荒浜小学校は
私たちに
東日本大震災の当時を
そのまま伝える為の施設でもあり
荒浜地区が
故郷の方にとって
この小学校が
唯一の帰郷場所だという
今回はここまで!!
長文にも関わらず
最後までご覧いただきありがとうございました
次回は
➁宮城ふらっと旅 with 松島&昔ってレトロだな~
を取り上げます!
速やかに取り上げます笑
「究極の二択 あなたはどっちを選ぶ? 牛丼編」
に関しては、宮城県の旅シリーズが終了次第取り上げます!
楽しみにしていただいた方には申し訳ございません🙇🙇♀️
吉○家FAN BOOKにて勉強中です笑しばらくお待ちください🙇♀️
コメントも大募集中です!!!
(noteのアカウントが必須となります)
次回もお楽しみに!
最後まで目を通していただき、ありがとうございました!
最近多くの方に見ていただいており、大変嬉しく思います。引き続き投稿 頑張りますので
よろしくお願いします!!
以前の記事の閲覧者数が多く、
とても嬉しかったです!!!
まだご覧になっていない方はこちらから~↓↓
この記事を書いた人はこの人!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?