38日目 2013年8月15日 56,000歩 40km 結願!! 足かけ4年3ヶ月、見事 30 歳直前で結願しました。 今日は遍路史上、一番キツくて一番幸せだった。 歩行速度4.5km/h で計算しても、お参りの時間含めると間に合わない計算の中、何とかやりきった。88番大窪寺に到着したのは 16:35。 「屋島寺から一気に結願する人は過去に聞いたことがない」と、迎えに来てくれたおくだやの主人もびっくりしていた。84番屋島寺へは登りの道をだいぶ早く歩
3年目のあばれ祭が終わりました。日曜の夜に無事帰宅しました。身体中がバキバキの満身創痍だけど、心は元気です。 プロジェクト自体は続くしまだ細かな残務処理が残っているけど、3月上旬に震災後初めて能登訪問してからの活動の一区切り。七尾駅でしまさんを送り出して一人で車で高岡に向かう途中、ホッとして涙がこぼれました。 3月上旬の震災後初めての能登訪問を経て覚悟を決め、勝手に年間計画を立てて、まずは認知を高めることだと4月10日に立ち上げた東銀座でのイベント「能登の祭ナイト.vol
能登半島地震という名の如く、地震で一番大きな被害があったの奥能登地方、さらに「石川県」というイメージが強いと思う。 実は富山県や新潟も被災していて、富山の氷見、高岡(特に伏木)の被害は局所的にだがかなり大きいことを、実際に見て確かめた。 私の妻の実家が富山の高岡で、叔母さんは氷見に住んでいる。1月3日から帰省する予定だったけどキャンセルした。そんなこともあり、富山での地震の影響についてもよく耳にした。 昨日から今日にかけて「伏木のけんか山(伏木曳山祭)」が行われていて、
早いもので黒石寺蘇民祭から1ヶ月以上が経ち、本格的な春が始まろうとしている。しかし、あの日の一体感と熱狂はまだ残っていて、本当に祭りが終わりを迎えたことを信じられない気持ちでいる。記憶が風化してしまう前に、黒石寺蘇民祭の参加体験記として書き留めておきたい。 5年振りの黒石寺蘇民祭に参加して令和6年2月17日、岩手県奥州市で行われた黒石寺蘇民祭に参加した。 最後まで祭と向き合い、「やり切った。自信を掴んだ」経験だった。 “ラスト”が宣言された黒石寺蘇民祭で、私はシンプルに取
今日の午後は近所のカフェの三階席でパソコンに向き合って作業していた。 お客は自分ひとり。スピーカーから聞こえるTOKYO FMのラジオDJの声がダイレクトに響いてくる。3月11日の東日本大震災の特集のある内容に思わず聞き耳を立てた。 「私は東日本大震災の時盛岡にいて、”東北の未来をつくる”子どもの一人だった。復興を託されること、頑張ってと応援されることを素直に受け入れ、「はい!がんばります」と言い続けてきた。 でも東北とは直接関係のない仕事に就き、頑張って働いていても、いつ
私は「祭り好き」でもある一方で、一般社団法人マツリズムの代表という立場でもある。2016年11月に法人を設立して一発目の企画が蘇民祭体感ツアーだった。だから気合も入った。 参加者が祭りの非日常性や地域の人たちに触れることで新たな発見やエネルギーが湧く機をつくりたいと思い、現地の人たちにも協力してもらってプログラムを練った。安い金額ではなかったので、当時正月に地元の温泉に浸かりながら果たして本当に人が集まるのか不安な気持ちだったことを思い出す。 結果、とてもモチベーションの
祭は誰のためにある? 究極的には「神様(あるいは神様的なもの)のため」だろう。 祭は誰がつくる? それは「人」だ。世界中どこに行っても、祭は人の集合体だ。 黒石寺における「祭」は、薬師如来のためにあり、住職と檀家を中心に、世話人と蘇民祭青年部が支え、つくり上げる。そこに、地元の人々、蘇民祭ファン、奇祭ファン、祭ファンが集まって、黒石寺蘇民祭ができている。 私が蘇民祭を好きな理由は、 これまで述べた「非日常をつくりだす装置」としての要素や、「人類普遍の壮大な物語の具現化」
黒石寺蘇民祭とは何か? それは生命誕生の物語を追体験できるお祭りだ。 前回は、祭に参加する一個人の立場から蘇民祭を表現したが、今回は少し俯瞰をして蘇民祭を語ってみたい。 黒石寺蘇民祭に初めて参加したのは2015年のこと。当時一緒に行ったアメリカ出身女性の友達が、祭の全体を観察して最後にこんな感想をくれた。 すごく簡単に訳すと、こんな感じ。 「それぞれ違った個々が一つの脈打つ塊になっていく」「ジャッソという掛け声が、単なる声ではなく身体の集まりから発せられてるように感じた
黒石寺蘇民祭とは何か? 過去5回参加した経験から感じたことは、「生と死・再生」を体験するお祭りであるということだ。本来的には蘇民将来信仰の「蘇民」なのだが、その名の通り「民が(一度死んで)蘇る」祭という要素がある。 祭りの前一週間は精進をし、身体の内側を清めるために努め、水垢離で身体の外側も清め、柴燈木登り(ひたきのぼり)では煙を吸い込み、涙と鼻水を流して呼吸器系を清める。2月の岩手は寒い。一番寒かった時はマイナス12℃だった。極寒の中でふんどし一丁で川の水を浴びると、唇が
先日、Abema Primeの番組に出演しました。個人的によく見ている番組で、 考えることや学ぶことも多かったのでnoteで振り返りたいと思います。 動画はYouTubeの方が短くで見やすいのですが、一番伝えたかったところはカットされてしまっていたので、よろしければ本編を見てもらえると嬉しいです。 動画【お祭り】だんじり事故で廃止するべき?危険性どこまで排除?警察の介入は?住民と地域に必要?|アベプラ - YouTube:https://www.youtube.com/w
7年前、初めて能登に足を踏み入れたときから「あばれ祭」の存在は知っていた。3年前に同じ能登町内の「とも旗祭」に参加させてもらって以来、能登町にも何度か足を運んでいたけれど、昨年一昨年とコロナの影響であばれ祭も中止になってしまい、なかなかそのリアルな姿に立ち会うことはできなかった。でも今年の初めに能登での仕事が決まり、祭も3年ぶりの再開、しかもほぼ100%の状態での開催ということを聞き、満を持してあばれ祭に行くことになった。 初めて行く祭。あんなにワクワクしたのは久しぶりだった
映画「パッチ・アダムス」をご存知だろうか。 劇場でこの映画を見ることはなかったけれど、高校生三年生の頃にビデオテープで何度も見ることになった思い出の映画。 母校・小田原高校の名物といえば毎年6月に行われる「小田高祭」、いわゆる文化祭だ。文化祭の中心企画といえば、2,3年生がクラスごとに行う演劇。テーマになる映画を決めてそれを自由に脚本を編集し、配役を決めて練習し、文化祭で上演する。本番一ヶ月前くらいからは、それぞれが小道具を作ったり練習をしたりと準備を重ね、どのクラスもか
僕は神奈川県南足柄市で生まれ、育った。みなさんご存知「金太郎」が幼少期を過ごしたといわれる「足柄山」の麓に暮らしていた。水が綺麗で自然豊かな場所で、台風が来て休校になったら田んぼに走ってリアル竜巻旋風脚ごっこをしたり、夏の暑い日は下校中に制服脱いで川の滝から飛び込んだりワイルドな生活を送っていた。そんな煌びやかな思い出のある地元南足柄のことを誇りに思っていた。 大学に進学し東京で一人暮らしを始めたが(正確には埼玉だが)、地元愛の強さゆえに、大学のメールアドレスは "kint
『あんもの変顔サイコー!!』 高校の卒業アルバムにはこんなことがよく書かれている。高校生の頃、あることがきっかけで言葉がうまく出なくなった。いわゆる「吃音症」というものだ。(※あんもは私のあだ名です) 当時の自分にとって「面白い」と言われることがアイデンティティだったから、言いたい言葉をうまく言えなくて吃ってしまう自分が必死に身につけたのが、変顔だった。変顔をすれば、言葉を言い換えなくても、言葉を出さなくても笑いが取れた。鏡の前で何度も練習して変顔を磨き、なんとか自分を保
どこぞの自己啓発本みたいなタイトルだが、最近ふと思ったことだったので書いてみることにする。 ここ2年くらい(もっと長いか)、ほんっっっとうに自分に自信が持てなかった。コロナ期が始まってしばらくした去年の秋口からなんかはかなり重度で、塩をかけられたナメクジばりに小さく小さくなっていた。それが、今はだいぶ良くなった。 よくなった理由は、ある一つのことを続けられているから。それは「歩く」こと。一ヶ月少しくらい前からはデジタル腕時計で歩数を測るようにしていて、今は毎日10,000
楽しみにしていた皆既月食は見えなかった。でも、自分の中で大切な感覚を久々に感じられた、いい夜だった。 月食のことは当日の夕方のネットニュースで知った。家族にそのことを伝え、「娘も一緒に見れるかな〜時間的に無理かな」なんて話していた。ご飯とお風呂を済ませ、19時半から妻は寝かしつけに。自分は仕事に戻った。 20時になった。パソコンを閉じた。そそくさと部屋を出てマンションの非常階段に出た。月は見えない...。おかしい。そのまま一番上の階まであがり、よじ登って屋上に上がろうとし