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5月17日 詩の言葉、散文の言葉。「詩人」と評された池田晶子さんについて。
佐野衛さんの本、「書店の棚 本の気配」P.46に、荒川洋治さんが東京堂書店で講演されたときの内容が記されていた。
書店の棚 本の気配
作者:佐野 衛
亜紀書房
荒川さんは詩人でエッセイも書かれる方だと認識している。私は今まで「詩」というものをほぼ書いたことがない。だがここで思いだすのは、敬愛する池田晶子さんが、詩人である人に池田さんの文章は「詩」である、と評されていたことだ。
詩人が他の人の文書を「詩である」という事は、たぶん最大限の賞賛であるのだろう。そのことを感じて一読者である私もなんだか嬉しく感じたものである。
荒川さんはいう。
散文の言葉はだれにでもわかるような仕組みになっている。それは論旨を理解してもらわないといけないからだ。だがそれはある意味、本当の自分の言葉ではない。自分の感性をときに裏切っているのではないか。これに対して、詩の言葉は自分の感性から出た言葉だ(後略)
なるほど、と思った。ここの欄で結構私は好きなように書かせて頂いているし、そもそも日記という体だ。だがこうしてWEBではご覧いただける仕様なので、どこかでお読みになるかた、それがいようがいまいが、を意識している、確かに。
で、詩はそうではない。魂からまろび出る、巫女が神託を、神の言葉を受けて発する器であるように、感性が発するものをただ提示する。誰に?そう、「世界に」であろう。
そう考えれば池田晶子さんの言葉が「詩」である、と評されるわけにも合点がいく。池田さんご自身、ご自分の立ち位置を「哲学の巫女」と称されていた。
そう、自分が頭で考えた、というよりは、哲学がそう考えた、そうなるしかないよね、ということだけをおっしゃっていたのだろう。
それは限りなく、「詩」を表出する「「詩人」の態度と近しいのだから。
(池田さんの言葉には、「詩」と「哲学」という「普遍」が内包されていましたよね。。)
魂とは何か さて死んだのは誰なのか
作者:池田 晶子
トランスビュー
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