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日記2月23日。 #日記

暖かくなった。本日は20度まで上がるようだ。最低は6度。さすがにネックウォーマーはやめて、マフラーにした(怖がりなので、予備です)。

死とは、何か。
じつはこれこそが、人間の「哲学」の最初の問いなのだ。そして死とは何かを「考える」ためには、とくに「哲学」を学ぶ必要はない。誰もが自分で考えられるし、また考えるべきことである。
池田晶子 死とはなにか P.117

本日2月23日は、敬愛する文筆家、池田晶子さんの命日である。2007年の2月23日、寒さを感じて、雪の中の温泉のことなども思われながらであったと思っている。

個人的に勝手にこの日を”待桜忌”と称してひとり池田さんを偲んでいる。池田さんは四季の変化にも鋭い感性をお持ちだったが(書籍から拝察)、特に桜に関しても印象深い文章を多くのこされている。

さてここで桜を見る私は、彼であったのか、彼女であったのか。

自ら教祖となることは絶対にない、とおっしゃっていたが、それはすこしくその哲学的思考の追求の先に見える、こうした真善美の世界へのあくがれが、人によっては宗教的なものと思われるからではないだろうか。

慶応大学の哲学科で、哲学を”学ぶ”皆さんの中で、自らが考えることこそが哲学だ、とおっしゃり、そうしたことを分かりやすく凡愚の私にエッセイ等で示していただいたおかげで、そしてその喝、”悩むな!考えろ!”という愛あふるる言葉を通じて、私も私なりに自分で考えたい、ということだけは思っている。

池田さんとの会談で、人は池田さんを”菩薩”であると評した。そして自らその口から神の言葉としての”真実”が通って発出(最近のはやりことば使ってみました)する巫女を自任されていた。面倒だなと思ってもどうしようもなく面倒見がよく(動物好きの池田さんはどうしようもなく生き物を愛されていたのだろう)、考えず、分からない私のようなものに可能性を示していただいた。まさに”蒙を啓く”労を衆生に示さずんばおれない姿、その姿こそが菩薩であり、菩薩行であったのだろう。

分かりやすくと思うとどうしてもこうした宗教的比喩が出てくる。だが宗教と哲学は肌合いが似ている部分があるが、まったく別のものであると池田さんの教えを通じて私は理解している。宗教とは縛る行為、哲学とはなにものにも縛られずに自由に考える行為のことだ。


デザインとブランドについて。

美については、いくら考えても尽きることがないようだが、人々のアプローチには大きく2種類があるように思う。

一つは機能から入る美。機能美、というやつだろう。

美しい機能を備えた結果、その姿が美しいことである。例えばアスリートの肢体や、高速で移動する昆虫、鳥、動物。車や飛行機のデザイン。そうしたものが思い起こされる。そしてそこでは場合によっては機能優先、機能がたかければ一般的感覚の美が少々減っても仕方がない、という態度も同時に採用されよう。

もう一つは表面的な美をあくまで求める姿である。その奥の機能の良さは、あればありがたいが本質的には2次的要素である、というもの。

多分望ましい姿は機能美を愛する姿だろう。だが私の中を虚心に見れば、そこには美を美として、あくまで求める気持ちが、あるのである。

なぜ美のみを求める姿が望ましくないと感じられるのか。それはその追及が時にこじれ、いじけ、ねじれ、深化しすぎるからだろう。そしてそこにあるのは深い餓え(かつえ)。自分だけで、美を独占したい、という醜い心だ。

だが、私の”美”は、それなのである。

こまったことだが、一定数そういう傾向の皆さんはいらっしゃると認識している。どうやら男性に多いような。これはもしかすると、自らが子を産む、という可能性がないが、なにかを生み出したい、そしてそれを独占したい、という母性初期の思いと類似あるいは対峙するものではないかと勝手に推測している。

子どもが育ち切ると、弱い子供を徹底的に守る、という母性本能はゆるやかに変化するのでは、と考えている。

面食い、ということばがある。自らが卑下的に使う場合は格別、人から称される場合は否定的な意味でしかないだろう。だがこのことばを耳にするたびに思う。なぜに否定するか。僻みか!?と。

美にあくがれてなにがいけないのか、と思うのだ。

だが、口に出すことはない。曖昧に笑って話題をスルーする方向に努力する。


思えば自分の心を一般的に開陳すべし、という日本社会のプレッシャーが嫌いだった。なぜそんなことを?仲間であるなら示せ、というプレッシャーであることは理解しているが、とにかく嫌だった。自分を見せない、などと言われたりするが、できなかった。

これは私が持つ人との距離感の問題だろうと思う。距離感とはつまり”信用できる人ばかりではない”だ。こわいのだ。

いつも書いている幼少期の”いきなり理由なくボディブロー”がいまだに効いている。人は意味なく豹変し、危険になる。

これはもう、一生解消しないであろう。プライバシー開陳が怖いのも、これに似ているかもしれない。なので、欧米である”匿名は信じられない、記名で意見を言うべき”という姿勢は、すごいなと思いはすれ、自身がそうすることは今のところ考えられない。

FACEBOOKというものがある。匿名でもできるようだが、属性が駄々洩れであるイメージだ。少しやったのだが、非常にストレスフルだ。やっている皆さんはどういう感じの心もちなのだろうか(非難ではありません。わからないのです)。

デザインとは、なので美の為にするデザインと、機能優先のデザインがあるのだろう。個人的なイメージでは、日本車デザインは機能優先。欧米車は美優先(感覚優先、といってもいい)。個人の意見です。

どうしてほとんどの日本車デザインにこれほど魅力を感じないのか、と子供のころから不思議でならなかった。これはひととは違う感覚かもしれない、と思い、別に人に言うことはなかった。好みは人それぞれであるからだ。いままでで日本車でいいなとおもったのは、ユーノスロードスター、コペン初代、あと名前が出てこないがNISSANのRV(欧米人デザインだったようだが)。

持ってみるとだんだん愛着がわく、ということはある。あるのだがFIRST IMPRESSIONがないのだ。いったいなぜだろうか。

そういうことを重要視せずデザインしている、あるいはそうしたデザインが日本では売れない、として最終的にカーメーカ首脳陣から却下される。

そうとしか思えない。

だが皆さんが喜んで乗っているのを見ると、疎外感がおこる。人との比較はいかんいかんとこれほど言っていてもこのざまだ。

最近は日本車メーカも海外での販売比率が上がってきて、海外向けデザインが出てきたようだ。よく見るとなかなか悪くない車が出てきた気がする。いままではとにかくトヨタのデザインが個人的には好きではなかった(個人的意見です、乗ってる方すみません)が、レクサスやヤリスなどは悪くないと思うようになった。マツダも全般的に悪くない。

そして不思議なことに、海外で日本車を見ると、3割増しでかっこよく感じるのは、いったいなぜなんだろうか。海外で日本人と会うとうれしいこととなにか関係ある???

(デザインとブランドのことを書こうと思いましたが、話が別の方向に行きましたので、また次回以降で)










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