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夢を追うことも大事だけど、夢をどう畳むかも大事という話

40歳を過ぎると同世代がSNSに投稿しない問題

42歳になって思うのは、同世代の人たちがSNSに投稿しなくなったということです。

少し上の世代の人からは「30超えると友達と疎遠になる」ということは結構よく聞かされてきたので何となく合点がいく部分もあるのですが、こんなに多くの人たちが共通して離れていくっていうのはどういうことなんだろう?って考えまして。

確かに考えてみると、30くらいまでの間多くの人たちが投稿しているSNSネタって家族のことであったり、誰と会った、どこに遊びに行った、何を食べた、そんなありふれた日常なんですよ。

しかも、その日常というのがどこか楽し気で、輝いていて、いやらしい言い方をすると「イケてる自分」を装ってる部分があったんです。

私はそういう投稿しても何故か大していいねが付くタイプではないので、頭に来るから死ぬ気で面白い話を構築して投稿するっていうことに飼いならされてきたわけで、イケてる日常なんてものは上げたことが殆ど無いです。

地元を離れた立場として、そして高校や大学といった友人と直接の連絡をSNSの影響で取らなくなった立場としてそこから思うのが、みんな何やってるか全然分からないということです。

便りが無いのがいい便りとは言いますが、かといっていきなり連絡するのも選挙?ネットワークビジネス?って感じで妙に構えられてしまうので結局ただ疎遠なことを受け止めるしかない訳ですよ。

かつての夢追い人の近況は40歳を超えるとほぼ見ない

その中で、特に音信不通になりがちな人たちがいまして。それは、夢を追いかけた人たちのことです。

ここで言うところの夢っていうのは例えば「結婚する」とか「ラーメン屋を開業する」みたいな、ちょっと頑張れば割と手が届く類のものではなくて、本当に選ばれた人しか成れないような夢を追った人たちのことです。

私の周りに多かったパターンは、ミュージシャンと役者ですね。

大体このパターンの方って所属していたバンドを抜けたとか、劇団を辞めたといったところの報告以降はこれといって発信が無いんですよね。逆に言えば活動している時はライブとか舞台とか、そういう客寄せのための発信は多いんですがね。場合によってはそういう区切りの報告すらないことあります。

発信が無いのでまだ夢を追うための活動をしているのか、もう折り合いを付けて普通に働いているか、どっちだかわからないし、聞けないですよね。よほどデリカシーの無い人でなければ。「そういやまだ音楽続けてるの?」なんて聞いたら怒り出すかもしれないじゃないですか。怖いですよこれは。

だから夢を追っている人に言いたいこと。それは、今何しているのか年に一度でいいんで報告してほしいということです。今何しているのかが分かるとその辺の不安がなくなるので。

夢の畳み方という新たな問題について

でね。

夢に対するスタンスって30年前からだいぶ変わってきたと思うんですよ。言葉を選ばずに言うと、夢と言われると否定する方が悪になってしまうということ。

まぁ分かるんですよね。
誰かがその人の行動を制限するのは確かに良くない。

やりたいことがあったのに、それを周囲が止めることによって機会が喪失されたら多分一生そのことが心残りになり続けるんですよ。そうすると、その夢のことがずーっと残り続けた状態で一生過ごすことになる。

こういう時代を経ているから、最近の親世代も周りも夢って頭ごなしに否定できないんですよ。なんでも子供の意向に沿ってやりたいことをやらせる。子供としては心地いいと思うんです。

ただそうすると困るのが、夢の畳み方なんですよ。
これは本当に難しい話だと思います。

夢に向かって30歳とか、サラリーマンとしての区切りの年齢を超えるところまで来て、今までであれば誰かデリカシー無く早く田舎に帰れとか夢を諦めろとか声高に言う人がいる訳です。

本人はこの言葉に反発しながらも実は限界を悟っている部分もあって、絶対人としてはあまり良くない発言だとは思うんですけど渡りに船のような形でそれが次の道に進む契機になったりします。

今の時代、ケツを叩く人が居ないんですよ。
夢を迷わせる人が居ない。

夢を畳むためには自分で気づいて、自分で決断するしかない。

夢に手が届きそうで届かない人が諦めきれない

ある程度の年齢まで夢に向かってきた人って、大体箸にも棒にもかからないタイプではないんです。もし芽が無ければさすがにどこかで辞めちゃいますからね。

音楽で言えば、有名なミュージシャンと繋がりが有ったり、ライブを一緒にしたことが有ったり。そういうレベルの人が多い気がします。

手が届くようで、なかなかその先に進めない。
だから諦めきれない。

演劇も同じパターン多いんですよ。
有名人と飲み仲間だったり。

でも結局私の周りでWikipediaあるレベルで音楽や演劇で来てる人って「いわいのふ健」っていう人だけだったりします。すげえ名前なんですけどね、この人。通称「いわ健」って呼ばれています。

届きそうっていうところまで来たからもう少しやってみよう。ってなるともう一生諦められないんですよ。でも客観的に見ると、絶望的な差がある。みんないわ健にはなれない訳です。

このルート入ると本人も周りも悲惨で。

夢に手が届きそうだから諦められないと本人は思っている。周りは100%応援しきれない部分がある。いい歳して本人は手が届きそうとは言うけどそうでもない。

もうこうなっちゃうと、一生ものですよね。聞く耳を貸さないし、言われたらどんどん頑なになる。

じゃあここまで来た人が普通の社会人として周りにいろいろ言われて第二の人生をスタートしたとしたらどうか?って言うと、そういう人もあまりいい話は聞かない。やっぱり夢を追っていた時のことを少なからず引きずってる。

夢を追う大事さと、どう畳むかはセットで教えねばならない

夢って本来人をポジティブに、楽しく生きさせるためのものであるはずなんですけど、こうなっちゃうともはや夢の奴隷のようなもので、夢に縛られて、夢に傷つけられて、でも夢にすがって生きることになってしまう。

だから、夢の畳み方って大事だと思うんです。でもそんなこと誰も教えてくれないんですよ。夢を追うことの大事さ、諦めないことの大事さは教えてくれるけど、どこで自分の限界を悟るか、認めるか、そして次に移るか。

これって夢を追うことの大事さと共に説くべきことのはずなんですけどね。夢って際限ないから難しいんですよ。

そして、夢を畳んだ後の生き方。それが余生であってはいけないんですよ。「俺から~を取ったら何も残らない」なんてよく言いますけど、何も残らないような生き方をさせたらだめだと思うんですよね。そもそも何かを懸命に取り組んだ経験って何にも代えがたいですし。

メディアに出る人は夢を叶えた人ばかりだから「諦めなければ夢は叶う」って無責任なことを言うし、一方で周囲の多くは夢を否定できないからぬるく見守っている。腹の中でそんなの無理だよって思っている人も結構な割合で居る。

夢に対する向き合い方って、綺麗ごとだけじゃなくて終わりまで伝える義務が大人としてはあると思うんです。夢に向かって進めるか、自分を諦めるかという決断をする上でチェックすべきポイントってあると思います。その話はまた違う機会にします。一つ言えるのはそれは「諦めない」みたいな精神論だけではないということです。

ちょっと真面目な話になりましたが、結局今日何が言いたかったかと言えば…

「いわいのふ健」の名前を出したかっただけです。

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西尾克洋/相撲ライターの相撲関係ないnote
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