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noteのコメント付けないことに文句言うのはマナー講師の言いがかりに似てる

最近妙に私の周りでnoteのコメントの扱いについての投稿が増えています。

まぁそれだけコメントを付ける付けないでいろいろと言う人がいるってことですね。

というか、端的に言うと
「コメントを付けないことの是非」
なんですよね、この場合。

この記事が流行る理由っていうのはまぁもう、noteをしている人の多くが懇切丁寧にコメントを返さねばならないと思っていて、それをしない人に対する批判がある、ということを前提にしている訳です。

きっかけになっているのが不思議なことに、コメントを付けなかったことに対して自分が居ないところで批判や悪口を言われているってところなのも不思議と共通しています。

なんだろうこれ

あとはあれか
困ったコメントを読者の方から付けられる、っていう趣旨の投稿も多いですね。

noteっていうのは記事に惹かれるタイプの作者(noterやクリエイターなんて呼び方もありますが)も居れば、人柄に惹かれるタイプの作者も居ます。

で、コメントを求めるのって、人柄を求めるタイプに多いような気がしています。

攻撃的な言い回しをするとnoteで慣れ合っている人が、note内でムラを作ってその中である作者のコメントの扱いをひそひそ話として否定している。

いや
ひそひそ話なのかもしれないけど、それ見えているから

ってことなんですけど、自分が求めるものが得られない、自分の考えと異なることに対して攻撃的になっちゃっているように思うんですね。

だから、閉ざされた世界の中で、同じように慣れ合っている仲間を味方につけてその考え方の異なる作者のことをひそひそ言っている。

とはいえ。
多分それ、コメントの是非だけの問題じゃないんですよ。

極論、その作者が好きか嫌いか。
ここだと思うんですよね。

凄く好きな作者が居て、仮にコメント付けたけど返ってこないとしましょう。

そのことに腹立ちますか?
文句言いたいと思いますか?

私はそこまで求めないんですよ。

だって村上春樹がnoteやっているとしてコメント欄に返信しなかったら怒らないじゃないですか。

自分が好んでいる人が意に沿わない対応をした場合、まずすることってその行動を理解しようとすると思うんですね。

例えばそれが信者と言われる類の人だとすると傾向は顕著で、その作者の行動を全て肯定する。

だからもう、その人というのもが完全に消失する。
価値観をその作者に合わせることでしか生きられない。

でもその方が楽なことっていうのもある訳です。だって、何も考えなくてもその作者のことを肯定し、理解しようとすればいいわけですから。

最近その手の人、多いんですよね。
政党の熱烈な支持者とか、推し活にのめりこんじゃっている人とか。

ちょっと話は逸れちゃいましたけど、コメント付ける付けない問題っていうのも、自分が好きな作者がコメントしなかったとしても「なぜコメントしないんだ!」って怒るような行動には出ない。

この問題の本質ってそこにあると思うんです。
決してコメントを付けないことへの是非じゃない。

ただ、その作者を否定する口実としてコメント付けないことをホスピタリティの欠如として論う人が一定数いるためにトピックとして取り上げられる。

好きな人や団体についてはどんなことをしても好意的に受け止めようとする代わりに、気に入らない人に対しては叩く理由を求めている。

そしてnoteという閉ざされた世界の中で本人の中で肝だと思っているホスピタリティが無いことを旗印にその作者を昔の「朝敵」みたいな感じでパブリックエネミー化させる。

そもそもね。
コメント付けない人って別にパブリックエネミーってわけでも何でもない。

だけど、noteという狭い世界の中で(言い方は悪いですが)ぬるい交流をして慣れ合っている人にはパブリックエネミーに見えてくる。

そこからしてズレているわけです。
ズレていることに気づかない。

だからコメント付けない人に文句言っている人には

お前、マナー講師かよ

って思っています。

勝手に自分でマナーだと思ってダメのレッテルを張っても、そもそもそんなことの是非なんてものは存在しない。

いいか悪いかっていう二元論であれば、少なくとも悪いと断罪されるようなものじゃない。

まぁ世の中の大半のものって良い悪いじゃなくて、好き嫌いという軸になってしまうんですよ。

だけど不思議なことに自分が嫌いなものってどうにかして「悪い」にしたがる人が多い。

だから「悪い」と言える理由を求めて血眼になって、隙を見せたらぶっ叩こうとする。だけど隙を見せたと思ったことも実はその多くが「悪い」ではなくて単に嫌いなだけだから色々とおかしなことになってくる。

そして「悪い」として今指摘されているのがコメント書かないことです。

最近ニュースなどで扱われる悪い意味でのマナー講師って、マナー無きところに勝手にマナーを作って「これはマナー違反です!」って言うことによって無くてもいいパブリックエネミー的な行動を量産しています。

Zoom上の上座とかその最たるもんじゃないですか。
そんなの知らねえよって。

で、Zoomの上座みたいなことを自分で勝手に定義してひそひそ言っているのが今回のコメント問題ってわけです。

まぁまじめにコメント問題について考えると。

noteを半年くらい本当にガチでやって、1記事のPVが平均で2000くらいになるまでやりつづけた立場として思うのは、noteでの交流ってしんどい時もあるってことです。

SNSの交流って大体楽しいところから始まるんです。
これは20年やってみると分かります。
大体そうです。

書いて、交流して、どっちも楽しくて、また書く。

だけど、そのサイクルが回ると書くことも交流することも楽しいだけってことにはならない時が来ます。

思ったように伸びないとか、記事が書けないとか、交流にまで心のリソースが使えないとか。

そういう時に私の中で思うのが

「神様は返事を書かない」

って言葉なんですよね。

高校生くらいの頃にNumberのノンフィクションで読んだ話で、タイトルとエピソードは強烈に覚えていましたが、名打者テッドウイリアムスが現役最後の打席でホームランを打ったけど歓声に応えなかったそうなんです。

それに対して評したのが先ほどのものです。

コメント付ける付けないなんてその人の自由。交流をしたら嬉しいこともあるけど、付けない人だっているし、付けられないようなタイミングだってある。

だって、神様だって返事書かないんですから。

だから私はnoteにのめりこんでいた一時期を経て、コメントを返す時と返さない時が出てきました。

明快な理由はありません。
気分が乗るか乗らないか。

それでいいと思うんです。

好きで始めたnoteなのにマナーで叩かれるとか、寂しいですよね。

交流も一部だし、そういうのを好む人は交流を楽しめばいい。それも醍醐味の一つなのは私も重々承知しています。上手く使うことによって作者と読者の絆が生まれるし、単純に楽しいですよ。

だから私はコメントの交流そのものを否定したいわけじゃない。
むしろ上手く寄り添ってもいたい。

ただ、交流が必須だと思ってもらっても困る。
それが言いたいためにいろんな話をしたんです。

何だろうなぁ

世の中多様性って言われていますけど、いろんなところで不寛容というか、こういうのはイラつくみたいなことも多く取り上げられていて、SNSのコメントなんてちっちゃいことまで対象になっているのはどうなんでしょうね。

それこそコメント付けるも付けないも人次第、っていう多様性を認めようぜっていう結論でいいと思うんですよ。

多分世の中の多様性っていうのは

俺の意見は認めろ
ただし俺が嫌なものは排除しろ

っていうワガママなものなんでしょうね。

だから多様性を認めさせたい反面、他人の多様性には不寛容っていうことなんだと思います。

最終的に言いたいのは

noteのコメントくらいであんまり怒らないでよ

ってことです

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西尾克洋/相撲ライターの相撲関係ないnote
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