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ていねいに暮らしたらパンクス失格ですか?〜死にかけたので生活を初期化した話〜

病に倒れてからこの半年で、生活のテーマが「ギリギリ死なないラインを攻める」から「ちゃんと死なないように生きていく」に大きく変わった。
それまでの自分は破滅願望丸出しな生き方しかしてこなかったし、そういう生き方しか知らなかった。

それは仕事だろうがプライベートワークだろうがまったく同じで。
以前の職場では、5徹して吐血して会社に救急車来させるまで働いたりとか、バンドは39度熱出ても絶対ライブ出演キャンセルしないとか(偉くもなんともなくて、ただの迷惑なヤツなんで真似しないでね)。

自分で自分を追い込む・・・というか、自分を自分でいじめ抜いてるって感じ。
そんな破滅的行動の根幹にあったのは「有能な他人」へのジェラシーと、「無能な自分」への自己否定感。

自分にはセンスも、才能も、強いフィジカルも、切れる頭もない。
それを自覚してるから、自分の欠陥を物量でカバーするために、ひたすら手を動かすことに徹した(し、それが正しい努力だと思い込んでたから・・・)。

みんなが休んでる時も自分は働かなきゃ!って焦り散らかして休日も血眼で仕事したり、寝る間も惜しんでプライベートワークの制作に時間を費やしたり。

というか自分みたいな出来損ないに休む資格なんかないと思ってた。
危機感なくのんびりしてる自分なんて、想像しただけでも許せなかった。
今思えば、認知歪みすぎ、プロレタリア根性発揮しすぎ・・・・。


◾️刹那的破滅願望にまみれた二十代


無茶苦茶に生き急ぐ、ってとこに、実はパンクの破滅的で刹那的な美学を見出してたのかもしれない。
後先考えずにその瞬間を駆け抜けて、前のめりに突っ込んで自爆しちゃうようなカッコ良さを、パンクロッカーの先人たちから学んできたという側面は確かにある。
そしてその佇まいの儚さに憧れたものだ。

実際私も、そうやって自分を追い詰める生き方がしんどいだけだったかと聞かれると、意外とそんなこともなく。
フルスロットルであればあるほど、ドーパミンが過剰分泌されてるみたいで快感だったし「今の自分、ノッてんな〜」とさえ思っちゃってたと思う(やば)(タチ悪)。


フルスロットルで思い出したが、今からちょうど30年前に、若き日のキアヌ・リーブスが主演した映画「スピード」をご存じだろうか。

走行速度が時速50マイルを下回ると爆発する爆弾が仕掛けられたバスを巡って、キアヌやサンドラ・ブロックが大奮闘するアクション名画。


何が言いたいかというと、そう、まさしく私はその「止まることのできないバス」そのものだった。
ちょっとでも減速したら爆発して死ぬじゃんって思ってた。

つまり、ほんのちょっと前までのマイコーさんは、

休むとか甘えだろ??????!!!!!!!!!!!!!!日和るな!!!!!!!!!!!!休憩?!!!!ハア?????!!!!!!!!許すまじ!!!!!!!!!!走れ!!!!!!!!歩くな!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!タコ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!休むな!!!!!!!!!!!!!!!!!深呼吸すんな!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!息継ぎすんな!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!休んだら!!!!!!!!!!!すなわち!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!死!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

という過激思想をお持ちだったってわけ。
でも走ってる途中は自分の走り方が正しいと信じて疑わないものだし、実際そうやって生き急ぐ人ってやっぱしカッコイイと思ってたからね。

◾️「死なない前提」に自分を最適化させる


少し前まであんなに強烈な破滅願望を持っていたのに、今となっては真逆の「慈悲」みたいな価値観を重んじるようになってきたから我ながらびっくりだ。

体の自由を奪われて、毎日あんまりにもしんどくて、滞りなく呼吸できるならもう何も望みませんから・・・って病床で神に祈った瞬間、競争とかどうでもよくなっちゃった。
勝とうが負けようが自分の価値はそんなことで左右されない。
遅かれ早かれ全員死ぬと考えれば、最初から自分の実体なんか無いようなものだし、勝ち負けなんて概念も所詮虚像にすぎない。
出世できなくても、日の目を見なくても死なない。
そう、死ななきゃいい。
そんなふうに思えるようになってから楽になった。

そもそもそれ以前に、私のフィジカルは既に限界突破しちゃってる。
つまり新しく掲げた「死なない前提」に自分を最適化させて、人生のあらゆるレースを辞退することにした
あんだけ爆走してた狂気のバスも、法定速度遵守の安全運転でOKになったというわけ。

▼ 東洋哲学や心理学の書籍を病床で何冊か読んだのも、自分にリアルタイムに響いてタイミング良かったような気がする。この2冊なんかは入門書的な易しさがあり読みやすかった



正直この半年のあいだで、限りなく死に近づいた瞬間もあった。
自分なんて天罰が下って地獄行きになってもなんらおかしくないダメ人間だというのに、どういうわけか一命取り留めちゃった
取り留めちゃった以上、これからも人生が続いていくという自然の摂理を受け入れるしかない。
で、どうにか腐らずやっていこうと「肩肘張らないラクな思考」に自然にシフトしていったのである。

物理的にも様々な変化があった。
今の自分にとっての最重要課題は、病に振り回される時間を減らしていき、ゆくゆくは人並みの生活を目指すこと。
そのために健康的な生活を愚直に継続することに全集中することにしたのだ。

この、一見なんの捻りもない地味な心がけが、フィジカルだけではなく如何にメンタルにまで影響するかを、齢三十にして思い知ったのである。
ありふれた一般論じゃないかとか、結局意識高い系になびいちゃったのかとか言われるかもしれない。
確かに人々がこぞって飛びつくような裏ワザとかでは決してないんだけど、地味なことを地味に繰り返すことのパワーを舐めてはいけない・・・。

実際この半年のあいだに、何がどう変わったかをざっと振り返ってみる。
まず酒、煙草、ジャンクフードからは完全に卒業した。
特に煙草に関しては1日1箱を10年間毎日消費し続けるヘビースモーカーだったので、現在7ヶ月禁煙している事実はまあまあ革命的だ。
他にもSNSなど、地味だけどストレスのかかる生活習慣は概ね見直した。 
どれをとっても、我ながら半年前の自分とは別人のようである。

また当初は厳しい食事制限にゲンナリしていたが、これもいい機会だから逆手に取ってやろうと発想を転換し。
現在は自主的に、油や加工食品を使わない簡素な和食を、日々の基本の食事としている。
また「摂らない」というよりは健康上の理由で「摂れない」という感じだけど、砂糖や小麦粉、カフェイン等も今はほとんど断っている。

▼ この本を読んで食事の価値観が180度変わったし、自分みたいな医療的食事制限のある人間でも食を楽しむ余地はあると希望を持てた。今は味噌汁を出汁から取って作るのにハマっている


睡眠の質を考慮して、夕食は18時頃までには済ませる。
夜は必ず湯船に浸かり、軽いヨガと瞑想をしてから、簡単な日記を書いて自分の思考をゆっくり俯瞰する。
なんとなく気分がつらいかも、と思った時は独学で学んだ認知行動療法のワークをちょっとだけやってみる。
そんなこんなで遅くとも22〜23時には消灯、最低8時間睡眠は死守する。
とにかく自分のことをそ〜っと丁寧に扱うようにして生活を送る
これがフィジカルのみならず、メンタルにまで恩恵をもたらしてくれるからすごい。やっぱり体はぜんぶ繋がっている。

▼ 認知行動療法:ストレスや不安などの負の感情を軽減させる心理療法。
自分の思考のクセに気付いて修正していくようなイメージ。この入門書にはワークブックが付録として付いているので手始めに取り組みやすかった



◾️パンク≠破滅的に生きること


・・・・・・・「そんなド健全で"ていねいな暮らし"送っちゃってるヤツなんか、全然パンクじゃねえ、見損なったぜ👎」とか言われそう。
まあ多分少なくともひとりかふたりくらいは言ってくる人いると思う。
となればもうそれは、hahahaha勝手に言っとけ👍と返すほかない。

過去の自分への戒めでもあるけど、いま改めて心から強く思うこと。
別に必ずしも、パンクス=破滅的に生きてるヤツ、ではなくない???

革ジャン、ドラッグ、セックス、酒、乱闘…パンクってそういう短絡的な話じゃなくて、生き方の話だ。
長い物に巻かれず、世論に左右されないコアを貫く姿勢や勇気のことを指すんじゃないか。

自分の場合、現に病気という経験を経て価値観がひっくり返りはしたものの、以前の価値観だって現在の価値観だって、自分のなかでは嘘も矛盾もない、地続きで純粋なもの。
その時はその時なりに、自分が信じてきたものなのだ。
なので、いま現在、自分が進むべきと思った道を誠実に歩む勇気を持ちたい。

・・・・というかこんな自分の主張も含めて「かくあるべき」という型がある時点でなにがパンクやねん、もっと言えばシビアな顔してムキになってパンク論争繰り広げるとか、な〜にがパンクやねん!とは思う・・・・・(自戒の念も込めまして・・・・・)。



◾️余白に意味とかいらない


今思えば、これまでコスパ・タイパにも随分と取り憑かれてきたなと思う。
たとえば体調が悪くて何もできない時間とかもどかしくて仕方なかったし、また時間を無駄にした〜という自己嫌悪で幾度となく自分を責めてきた。

いかにも「生産性が無さげな余白の時間」は全部無駄だと思っていた。
思いがけずそういう余白を生んでしまったとき、自分を許せず怒りに震えるわ、バッド入るわで、収拾つかなかったあの頃・・・・・・・・・・。

でも今は、そういう意図せず生まれた余白さえも、晴耕雨読的な精神で肯定していけばいいんだと思えるようになった。

しかも自分の病気は悪化のトリガーが見極めづらいと言われていて、対策にも限界があって、特効薬も確立された治療法もない、とかいうんだから、もうどうしよもない。不可抗力じゃん。

だったら尚更、自然のなりゆきに身を任せればいいじゃない。
いちいち自分に許可を取って自分を許す必要もなければ、いちいち余白に意味を求める必要もない。

今まで絶えず手を動かしてきたのは、みんなの記憶の中に留まり続けたいという自己承認欲求もあったからだと自分でも思う。
でも今となっては別にみんなから忘れられても、オレの体調と気分さえ良けりゃどうでもいいし。てかみんなのこととか知らんし😄とサッパリしている。

そんなことより、体のつらさで悶えることなく穏やかに呼吸できる日が一日でも長く続く方が、今の自分にとってはこの上なく嬉しいこと。
だから物理的にも精神的にも余白のある暮らしができる、っていうのは大きな安心材料になる。
ちゃんと死なないように生きられてるってことだからね。



◾️味噌汁が美味しければ人生100点


先日、昆布出汁がすごく上手く取れて、そこに旬の野菜と魚を入れて味噌を溶いたらびっくりするほど美味しい味噌汁が出来上がった。
単身者なので一緒に食事する人はいないけど「う〜ま〜〜〜〜」とデッカい声が出たし、自分ってこんなに美味しい食事作れるんだな・・・とちょっと自分を褒めてやりたい、そんなじんわり満たされた気持ちになった。

そのとき心の底から、自分で作った味噌汁が美味しく食べれたら、それだけでオレの人生は100点!!!!!!と思えて嬉しくなったのだ。

こういう小さな達成感や充実感を噛み締められるような日が増えていけば、自分を他人と比べては、自分で自分を追い詰めるような焦りはちょっとずつ小さくなっていくんじゃないかと思う(なってってほしい)。

そんで出世して偉くなれなくても、みんなから忘れられても、生涯ひとりぼっちでも、パンクじゃないとかなんとか言われても、全然へっちゃらだなと思った。
なぜなら私が誰より一番、ていねいな自分の気持ちに納得できてるからね。


いまは鱈やほうれん草が美味しい季節だね


★ ヘッダー&本文中に使用のライブ写真提供 :  たまえ。


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