見出し画像

与格的主体(思いがけず利他/中島岳志)

コロナ危機によって「利他」への関心が高まった。
マスクや各種感染対策は自分がコロナにかからないための防衛策である以上に、自分が無症状のまま感染している可能性を踏まえて、他者に感染を広めないための行為でもあった。

そんな中、フランスの経済学者ジャック・アタリの「合理的利他主義」に注目が集まった。利他主義という理想こそが人のサバイバルの鍵だ。自分が感染しないために他人の感染を防ぐ。利他主義は最善の合理的利己主義でもある、という主張だ。

しかし、自分に恩恵があることを前提とした利他主義は、相手に「自分のためにやってるんだよね?」という不快感を与え、利他の循環は起きない。
そこで著者は主張する。
利他の本質は「思いがけなさ」である。
利他は人間の意思を超えたものとして存在している。

著者は落語「文七元結」や親鸞の教え、料理家の土井善晴の主張などを例に挙げ、利他的になるには器のような存在になり、与格的主体を取り戻すことが必要だと説く。
※与格=主体の逆。「つい身体が動いた」といった不可抗力や、土井善晴の「良き酒、良き味噌は人間が作るものではない。料理は人間業ではない」という主張などがこれ。

利他行為の中には、多くの場合「相手をコントロールしたい」という欲望が含まれる。また、与えた側がもらった側に対して優位に立ち、もらった側が返礼をできないでいると「負債感」に基づく優劣関係が生じ、徐々に上下関係がうまれる。
利他にはそうした毒が含まれ、利他と利己はメビウスの輪のようになっている。

意識的に行おうとする利他には、どうしても利己的な欲望が含まれる。利他は、自己の能力の限界を見つめたときにやってくる。
利他と偶然性は切っても切り離せない。
だから、利他的であろうとして特別なことを行うのではなく、与えられた時間を丁寧に生き、自分が自分の場所で為すべきことを為す。能力を過信せず謙虚になることで、自分という器を形成し、利他の種を呼び込める。

【所感】
「思いがけず利他」という奇妙なタイトルが腑に落ちてなるほどと思った反面、謙虚に生きろという結論に対しては「それだけかーい」と思ってしまった。(自己啓発やHow To本じゃないから別にいいのだけど)
与格という概念は新鮮だった。著者が親鸞の研究をしていたようで宗教的な話が多く出てくるが、器のような存在であれという一文には「何かを手放せる人は何かを手にする人だ」という私の友人の言葉にも通じるものがあった。

あと、以前読んだ「世界は贈与でできている」を思い出していたら、本書でもふれられていた。

利他も贈与も「循環」というキーワードが共通している。
自分という器を出たり入ったりするもの。留まっていてはいけないもの。
それが循環のためという意識をもたないにしても、何かを手に入れたとき、手放すことを躊躇しない人でありたいと思う。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集