心の『モノサシ』❗❓
私は障害者です。
生きたいです!
以下は、文末のリンクの記事がある運動に使用されて湧いた私の想いです。
「障害=可哀想」って決めつけないで💦
何度も言いますが、私は障害も病気もあります。
生きたいと切に願います。
誰しもが自分の中に「ものさし」を持っているものなのでしょうか?
まぁ、
お金が欲しい
子供が欲しい(欲しくない)
健康でいたい
障害が〜……
テストで高い点数を取りたい
スポーツ万能になりたい
引き締まった魅力的なボディーになりたい
そういう女性を〜……
皆が何かしらの「ものさし」を持っているから、欲が生まれるとも言えるかもしれません。
ただ、誰かの「ものさし」で他者を勝手に決めつけるのは良くないとも思っています。
それは、誰かの都合で命を軽んじることを肯定するからです。
そういう意味で、私達一人ひとりが自分自身の心と向き合うことも大事でしょうし、様々な人々が意見交換できることも大事ですよね。
人間は良いことにも悪いことにも慣れる生物だと思っています。そして、永遠に満たされることを知ららない、強欲な生き物だとも思っています。
障害者がいない世界や病気が存在しない世界を作ったとしても、障害を患っているが故に存在する苦労が何か別の苦労に置き換わるだけだと思っています。
お子さんが五体満足な家庭は多いです。むしろ、それが過半数です。
優生思想から言えば、そんな「パーフェクト」な家庭において、全ての人が最高に幸福で、何一つ不満のない生活を送っていますか?
🔺成績が悪い
🔺成績が良ければ、一番じゃないとか
🔺いつも勉強で一番なのが当たり前ならば、勉強もスポーツも両方一番じゃないと気がすまないとか……
🔺学内で全て一番なら、全国で〜
🔺良い仕事に就きたい
🔺もっと稼ぎたい
🔺人間関係
🔺恋愛
🔺もっと、もっと〜
まぁ、どこもそんなもんじゃないですか?
皆が何かを求め、皆が何かしら不満を抱くことがある。
障害があろうがなかろうが、皆が同じように同じ地球で色々考えながら、日々生きているのではないでしょうか?
また、安楽死とか出生前診断による選別とか、誰かの「ものさし」に沿って命を奪うことを肯定するとは、どういうことなのでしょうね。
大富豪は一般人が想像できない贅沢が当たり前になり、逆に貧困でもそれが日常ならばそれにある程度慣れます。
ひょっとしたら、大富豪からしたら我々のような日本の一般市民の生活は見るに絶えられぬ、殺してあげたり、生まれないようにしなければいけない生活の障害かもしれませんしね。
「ものさし」が変われば、迫害対象者が変わるだけじゃないでしょうか?
要は、殺人を肯定した上で「ものさし」の議論をしているように感じます。
心の中に「ものさし」が生まれることは防げずとも、自分の行動は自分でコントロールできることが多いと思います。当然、言動も。
先ずは、優生思想や安楽死の是非の前に、そもそも「命を左右してはいけない」という考え方も、今一度思い出してみませんか?
今を大切に生きよう!
以下の記事が、安楽死デモに使用された記事↓↓です。(記事は安楽死を肯定していない印象です。)
この記事自体は、筆者の考えが書かれており、苦労も垣間見え、勉強になると思っています。