【ちょっとだけ哲学】私の仏教・私なりの唯識思想
九條です。
ゆっくりと考える時間がある大型連休なので(しかも今日は雨ですし)、ものの見方や考え方について、簡単にちょっとだけ哲学的なお話しを(約1,600文字)。^_^
私は古代仏教である奈良時代の仏教(南都六宗)のうちの法相宗の信者なのですが、この法相宗の教えは以下にお話しする「唯識」という哲学的な思想から成り立っています。
さて、
という古い歌があります。一説には興福寺(法相宗 大本山)の高僧が歌ったものだとも言われています。
どういう意味の歌かと申しますと…
奈良の興福寺のすぐそば(旧境内地)にある有名な猿沢池。この池のほとりで人が「パン」と手を叩くと、
◎池の側にある茶店の人は、お客さんが呼んでいるのだと思い「はい」と答える。
◎池の側にいた鳥たちは、鉄砲が撃たれたのだと思って、いっせいに飛び立って逃げる。
◎池の中にいた鯉は、人が餌をくれるために呼んでいるのだと思って集まってくる。
このように「人が池のほとりで手を叩いた」という現実に対しても色々な解釈があり、色々な行動へと繋がるという意味です。
この歌は、法相宗の根本哲学である唯識思想を見事に分かりやすく歌ったものだと言われています。
例えば…
私が見ている信号の青色と、私の隣に立っている人が見ている信号の青色は、色彩学的に(仮にそれをコンピュータなどで測定できたとすると)同じ青色だとは限りません。
同様に自分が見ている風景と、自分の隣にいる人が見ている風景が同じ色の風景だとは限りません。
自分にとっての善や正義が、他人においても善や正義だとは限りません。
また、平時では人の命を奪うことは重罪だけれども、戦時では自分が1人の兵士となって敵兵の命を奪うことは罪に問われません。
このように、人の認識や価値観や世界観というものは人それぞれに違い、またその時その時における時代背景や社会環境によっても全く異なってきます。
すなわち、私たち人が認識しているこの世界は人の認識の内側にある不確実な世界であり、(私達は人ですから)そこから一歩も人としての認識の外側へ出ることはできないのです。
つまりは、私達が認識しているこの世の全ては人の認識作用によって成り立っている世界ですから、私たちが「客観的事実」だと認識しているその「客観的事実」も人の認識の内側にあるものなので、それは間違いなく人の「主観的判断」の一部分であり、そもそもこの世に絶対的な「客観的事実」などは存在しません。
そう考えると、ひとりひとりの価値観や世界観は異なるのですから、だからこそ、ひとりひとりの価値観や世界観を大切にし互いに尊重しなければなりません。
自分にとっての「善」や「正義」や「客観的事実」は、それは自分の認識の内側(すなわち自分自身の心のなか)だけでの「善」であり「正義」であり「主観」であることを思い知らなければならないのです。
多くの視点をもって柔軟に物事を考えることが必要であり、自分の価値観に固執して物事を決めつけたり断定したりしてはならないのです。
これが私なりに理解しはじめている「唯識」という仏教思想の考えかたです。
ちょっと哲学的な話をしてみました。^_^
※見出し画像は猿沢池から望む興福寺の五重塔(フリー素材 photo AC さんより)。
©2023 九條正博(Masahiro Kujoh)
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