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心と文化 〜歴史と文化と哲学と〜

九條です。

文化とは一体いかなるものなのか…。

それは私にとって永遠の課題であり、私のような愚鈍な者には永遠に解を得る事ができないのかも知れません。

文化とは、なんだかホワンとした空気のような存在であり、その実態は掴みどころが無いように思います。それは人の心がどういうもの(存在)なのかという課題と同じなのかも知れません。

例えば、最新・最先端のテクノロジー、AIなどを駆使して眼の前の一定の仮想的空間内に縄文時代の自然環境やモノを完璧に再現し、その空間内に21世紀に生きている現代人の私たちが足を踏み入れてみるとします。

はたして、それで21世に生きている私たちは縄文時代の文化を理解したり体験したりする事ができるのでしょうか?

その答えは、否だと私は思います。縄文文化に限らず弥生文化も然り、飛鳥文化も然り、天平文化も然り。ロマネスクも然り、ルネサンスも然り、バロックも然り、ロココも然り…。洋の東西を問わず、ありとあらゆる歴史的な文化は然りだと思います。

文化というものは人々の心のなかで育まれるものであって、その総体がある一定の時代の「空気感」や社会の「雰囲気」などを形成し、同時にそれが伝播し得る一定の空間内において人々の間に共通の美意識や価値観などを生み出し、ひとつの文化なるものを形成しているのだと私は考えます。

ですから、例え何万、何億、何兆と膨大な量の情報を集積しそれらをAIを駆使して分析してみても、文化という実態のない(人の心の中で育まれている)存在を機械を用いて機械的な文字や記号で表現したり可視化したりする事は不可能であると私は考えます。

それは、仏像を造って魂を入れないのと同じ事であり、音を奏でることなくひたすらスコア(楽譜/総譜)を読んでその内容を分析している事と同じであり、そこには真理を見失った無味乾燥な結果しか招かないと思います。

文化を繋ぎ文化を伝えて行くという事は、過去から現在へ、そして現在から未来へと人の心を繋ぎ、人の心を以て伝えて行くしか方法は無いのだと思います。

だからこそ、過去のある文化によって遺されたものを通じてその時代の文化に触れ、その時の人々の心の中を垣間見たり、その時の人々の心の動き(即ち感動)を追体験したりする事は、人としてとても有意義な事であると思います。

なんだか哲学的な話となってしまいましたが、歴史学をはじめとした人文科学の濫觴は哲学論であり、いまも哲学と歴史学とは同じ畑の中にあって同じ地平に立っていると思うので、偶にはこういう風に想いを廻らせてみるのも良いのではないかと思ったりしています。^_^

©2024 九條正博(Masahiro Kujoh)
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