古代の神ヤライについての随想
九條です。
私は普段は『日本書紀』をはじめとした、いわゆる「日本の正史」と言われる「六国史」を根本資料として日本の古代史などについて考えていますので『古事記』や『万葉集』については本格的に研究した事はないのですが…。
それに、どちらかと言えば『古事記』の研究は歴史学と言うよりも神道学や神話学の研究分野で『万葉集』は国文学の研究分野だという雰囲気が現在の日本にはありますので、私は『古事記』や『万葉集』に対しては「研究」というよりも、読んで(鑑賞して)楽しむという程度のレベルです。
しかし私は昔から(私が大学生の頃、すなわち今から35年以上も前から)『古事記』で少し気になっている部分がいくつかあります。
その中でもとりわけ『古事記』の山場のひとつ。須佐之男命が神々の国の高天原で乱暴狼藉を働いて、そのせいで天照大神が天岩屋の中に隠れてしまい、その後天照大神が天岩屋から引っ張り出されてこの世に光が戻ったあとに神々が協議して須佐之男命を高天原から追放したという一連の条について。
以上が神話ですが『古事記』は奈良時代に編纂されたわけですから、奈良時代の言葉で書かれています。
ほぼ同時期に編纂された『日本書紀』が中国大陸(唐)・朝鮮半島、とくに大陸の唐を意識してほぼ純粋な漢文で書かれているのに対して『古事記』は当時の言葉遣い(上代日本語)で書かれています。
上代日本語は独特のリズムや響きがあってたいへん魅力的で興味深いと思うのですが、その研究は国文学や国語学の分野ですので、歴史学の人間の私はここでは触れません。
さて、上記の条。色々と興味深い事がありますね。
まず、須佐之男命の乱暴狼藉は具体的に何を現していたのか?
次に天照大神が天岩屋の中へ隠れたのは、一般には「日食」という自然現象(天文現象)を現したものだと言われていますが、そうであるならば須佐之男命の乱暴狼藉と日食とを古代人はどのように関連付けて考えていたのか?
そして最後の一文、
「神夜良比夜良比岐」
これは、一般に神逐(かんやらい)すなわち神を追放する事だと解釈されていますが、そうであるならば追放された須佐之男命は具体的に何を象徴しているのか?
つまり須佐之男命が象徴する「何か」と、日食と、その日食が終わってから(穢を祓うために)「何か」を追放した事が、一連の儀式のように記述されていると読むこともできると思います。
すでに持統天皇の時代(白鳳時代)には暦博士や天文博士が置かれて日食の予報がなされていましたし、奈良時代になると陰陽寮が置かれました。
ですから、上記の『古事記』の記述から推測して古代日本において日食の予想を立て、日食が始まってからそれが終わって光が復活した後に、日食の穢を祓うための何らかの儀式があったと解釈することも可能かと思います。
私は小さい頃から、祖母や母には「日食や月食を(肉眼で)見てはいけない。不吉なことが起こるから」と言われて参りました。ですから私は今でも日食や月食は見ません。
そして奈良時代よりも後の平安時代以降の話ですが、やはり日食や月食の時には天皇や公卿たちは宮や邸宅の戸を締め切り、建物の奥深くの部屋に閉じこもって絶対に外の空気には触れないようにして、そうして日食や月食の穢れに触れないようにしていたと伝わっています。
神話を単なる神話として(すなわち古代人の創作として)片付ける事は簡単ですが、そうではなくて、その文化的背景を探ってみると文献資料の文字だけではなかなか見えてこない事が見えてきそうで、面白いですね。^_^
【参考資料】
◎井上光貞『律令』(養老令)岩波書店 1994年
◎国史大系版『古事記・先代旧事本紀・神道五部書』吉川弘文館 1998年
◎東京国立博物館古典籍叢刊編集委員会『九条家本 延喜式』思文閣 2011年
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