【文化の日に思う】「文化」が流行した時代 ~大正時代の頃のことなど~
九條です。
今日は2023年11月3日「文化の日」ですね。そこで「文化」という言葉について、その言葉の歴史や周辺のことなどを歴史学的にちょっとだけ考えてみたいと思います。
最後に研究者(学者)の端くれとして、ちょっと厳しい意見も申し上げます。その点はお許しください(本文約3,200文字)。なお、おもな文献の出典などは末尾の註にまとめて記しました。
1. はじめに(文化の定義)
「文化」という語をウチにある紙の分厚い辞書(『広辞苑』)で引いてみると、以下のように記載されています[1]。
私が専門に研究している歴史学の中でも「文化史」という分野は上記の(3)に該当し、とくに当該項目のうちの「人間の精神的生活にかかわるもの」で政治・経済史等を除くというような定義があります。
近代日本の歴史学は西洋(ヨーロッパ)の歴史学の伝統や考え方を基本としているので、そういう風な定義となっています。これは私が大学へ入学した直後にそういう風に学びました。
けれども、一般的にはおもに上記(2)の「世の中が開けて生活が便利になること」という意味で用いられていますね。
2. 「文化」の語の流行
流行の定義
次に「流行」という語の定義を確認しておきたいと思います。上記同様に『広辞苑』を引くと、
とあります[2]。
現在一般に言われる「流行」とは(2)の「衣服・化粧・思想などの様式が一時的に広く行われること。はやり」を指しますね。また「流行語」の定義を『世紀末死語辞典』で調べてみますと、
などとされています[3]。
翻って、この「文化」という言葉は大正時代の後半にたいへん流行しました。一例として、
◎文化生活[4]
◎文化家事[5]
◎文化食品[6]
◎文化住宅[7]
などの語を冠した刊行物が大正時代の後半に多く発行され「文化~」「文化的~」「〜文化」などの語が一般大衆へと広まりたいへん流行しました。
3. 大正時代の大衆運動
この大正時代には護憲運動が広がりを見せ、民本主義(民主主義)を称える運動すなわち、いわゆる「大正デモクラシー」の運動が一般大衆へも浸透しました。女性の社会進出とも相俟って[8]、一般大衆の政治参加への関心が高まり、それはやがて普選運動[9]・戦前の婦人参政権へと繋がります。
この大正期に起こった一般大衆の政治への関心の高まりと女性の社会進出は、近代国家としての日本における民主主義の萌芽であり、それは第二次世界大戦(太平洋戦争)の終戦を経て実を結ぶことになるのだと思います。
4. 大正時代の文化的様相
大正時代の初頭には小学校への就学率がほぼ100パーセントとなり、当時の国民全体の識字率も95パーセントを超えていました。この数値は当時の世界的に見ても最高水準の驚異の識字率であり、我が国が明治期から取り組んできた義務教育制度が大正時代になって花開いたと言えます。
また、大正時代からは大学への進学率が飛躍的に増大し、特権階級ではなくとも、有力者からの推薦がなくても、高い学力と経済力さえあれば無名の一般大衆でも大学へ行くことができるようになりました。これは現在と変わりませんね。
世界最高水準の識字率を背景として新聞も各社から発行されて飛ぶように売れました。当時の全国紙各社の発行部数は100万部を超えていたと伝わっています。
また週刊誌や月刊誌も発行され、定価1円の「円本」と呼ばれた文学全集や、子ども向けの雑誌・世界の童話集なども発行されました。こうして大正時代の一般大衆は、それまでになかったような文化的な生活を送ることができるようになったのです。
さらに洋装(洋服)や洋食も一般に浸透して行き、モボ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)が街を闊歩しました。大都市ではその市域内に路面電車網が張り廻らされ、乗合自動車(バス)やタクシーの利用も一般化しました。
娯楽面では蓄音機やレコードが一般家庭にまで普及し、また映画が大流行しました。
さらに新しいメディアとして、1925(大正14)年にラジオ放送が東京・名古屋・大阪で始まりました。このラジオ放送は「無線」の放送ですので、当時、「無銭」飲食のことを「ラヂオ」などとも言いました。
5. まとめ(開花した大正時代)
「戦前の日本社会」というと、連合国軍(占領軍)最高司令官総司令部(GHQ)による戦前日本の歴史・文化・教育・思想・価値観など、戦前のあらゆる物事の徹底的な全否定および(それによりいまも続く)戦後の義務教育ならびに高校での教科書教育等の弊害、そして戦後に活躍した著名な(しかし歴史学を学んでおらず学ぼうともせずに歴史学の方法論を無視し続けた)人気の歴史小説家などによるひどい偏見と読者に対するイメージ操作(ある種のマインドコントロール)などの悪影響により、多くの人は「戦前の日本は暗い社会だった」というイメージを抱きがちだと思います。
しかし明治の文明開化以降、私たちの「ひいじいちゃん、ひいばあちゃん」や「おじいちゃん、おばあちゃん」の世代の人たちが西欧文明を命がけで学び、必死になって模倣し、それを体得し、そして日本に合うように工夫し…。そういう涙ぐましい血の滲むような努力の結果、その成果が大正時代にパッと花開いたのだと言えます。
大正時代から昭和初期(戦前)の日本の工業生産力や経済成長率は(その中に軍需産業を含んでいたとはいえ)世界最高の水準でした。それは戦後の1960年代から70年代にかけて「東洋の奇跡」と世界が驚嘆した「高度経済成長期」の生産力や経済成長率にも匹敵する程の水準でした。
けれどもそれは第二次世界大戦(太平洋戦争)によって、全てが灰燼に帰し、我が国は何もかもを失ってしまったのです。戦争はするものではありません。
翻って、たとえばある時代についてその時代を経験していない者が自分でよく調べもせずに単なる思い込みやイメージだけで「悪い時代だった」と断ずること、否定することは、その時代を一所懸命に精一杯生き、懸命に生き抜いた人たち、すなわち私たちの祖先が懸命に「その時代を生きたこと」に対する侮辱であり、失礼極まりなく、それは、ひいては歴史そのものへの侮辱・冒涜にもなると私は思います。
そうした先入観にとらわれず、偏見を排して歴史を丁寧にきちんと調べてそれを素直に予断なく俯瞰すれば、大正という時代は「激動と変革・文明開化の明治」が終わって、そして悪夢の第二次世界大戦(太平洋戦争)の泥沼へと突入するまでのほんの束の間、ごく僅かな期間に一瞬だけキラッと輝いた平和の時代、文化が香った時代、大衆が文化を謳歌した時代だったのかも知れません。
歴史を正しく見つめること、そしてその時代の文化を正しく知ることは、たいへん重要な事だと思います。
わが国の歴史と文化を「守る」ために。
そして学問を偏見から「護る」ために。
2023年11月3日「文化の日」
歴史学者の端くれ
九條正博 記す。
【註】
(1)『広辞苑』第四版 1991年
(2)(1)に同じ
(3)加藤主税『世紀末死語辞典』中央公論社 1997年
(4)枝元長夫 編『科学を基礎とした文化生活』大阪毎日新聞社 1922(大正11)年 など
(5)石沢吉麿『文化中心家事新教授法』教育研究会刊 1923(大正12)年 など
(6)笹井孤星『文化食品つくり方』帝国飲食料研究社 1925(大正14)年 など
(7)熊瀬久一郎『文化住宅図案百種』文化住宅研究会刊 1926(大正15)年 など
(8)九條武子、平塚らいてう、市川房枝など
(9)1925(大正14)年に普通選挙法成立
※見出し画像は九條正博がAdobe PhotoshopとAdobe Illustratorを用いて作成。
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