古代王権の確立(大王は神にしませば)
九條です。
『万葉集』を見ていますと「オオキミは神にしませば」という歌が、ある時期にまとまって見られます。それらを以下にまとめてみました。ごくごく簡単に見ていきたいと思います。^_^
【歌】
王は
神にしませば
天雲の
五百重の下に
隠れたまひぬ
(『万葉集』巻二・二〇五/置始東人)
【原文】
王者 神西座者 天雲之 五百重之下尓 隠賜奴
【意味】
大王は神でいらっしゃるから、天雲の幾重にも重なった下にお隠れになってしまった。
【背景】
この歌でいう「王」とは、弓削皇子(天武天皇の皇子)のことです。
(弓削皇子薨時置始東人歌一首<并短歌>)反歌一首
【歌】
皇は
神にしませば
天雲の
雷の上に
廬りせるかも
(『万葉集』巻三・二三五/ 柿本人麻呂)
【原文】
皇者 神二四座者 天雲之 雷之上尓 廬為流鴨
【意味】
大王は神でいらっしゃるから、天雲にとどろく雷(=飛鳥の雷丘)のさらに上に、仮のやどりをされているよ。
【背景】
この歌の正確な時代は分からないのですが、おそらく天武天皇または持統天皇の時代だろうと考えられます。
(天皇御遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首)
【歌】
皇は
神にしませば
真木の立つ
荒山中に
海をなすかも
(『万葉集』巻三・二四一/ 柿本人麻呂)
【原文】
皇者 神尓之坐者 真木立 荒山中尓 海成可聞
【意味】
大王(長皇子)は神でいらっしゃるから、立派な木が茂っている荒れた山の中にも湖をお作りになる。
【背景】
この歌でいう「皇」とは長皇子のことです。長皇子は天武天皇の皇子です。
(長皇子遊猟路池之時柿本朝臣人麻呂作歌一首<并短歌>)或本反歌一首
【歌】
皇は
神にし坐せば
赤駒の
匍匐ふ
田居を
京師となしつ
(『万葉集』巻十九・四二六〇/大伴御行)
【原文】
皇者 神尓之坐者 赤駒之 腹婆布田為乎 京師跡奈之都
【意味】
大王は神でいらっしゃるから、栗毛の馬が腹まで水に浸かって耕すような田んぼでさえ、都と成してしまわれる。
【背景】
天武天皇の時代。壬申の乱が平定された後まもなく歌われたものと思われます。ここでいう「京師」とは飛鳥浄御原宮と考えられます。
(壬申年之乱平定以後歌二首)
【歌】
大王は
神にしませば
水鳥の
すだくみ沼を
皇都と成せつ
(『万葉集』巻十九・四二六一/作者不詳)
【原文】
大王者 神尓之座者 水鳥乃 須太久水奴麻乎 皇都常成通
【意味】
大王は神でいらっしゃるから、水鳥が群がり集まるような沼でさえも都としてお造りになった。
【背景】
天武天皇の時代。この歌も壬申の乱が平定された後まもなく歌われたものと思われます。
(壬申年之乱平定以後歌二首)
このように見てきますと「オオキミは神にしませば」という歌は天武天皇の時代(在位:673年〜686年)の頃に集中していることがわかりますね。
その理由は、おそらく天武天皇の時代に古代の王権が確立したと考えられるからだと思います。それまでは同じ「オオキミ」と言っても、古墳時代以来の「豪族連合政権のリーダー」的な存在であり、その権力基盤は諸豪族の力に大きく依存している部分があったと思います。
それが天武天皇の時代になって、後の律令制における「オオキミ=天皇」としての強力な権力基盤をようやく持つことができるようになったのではないかと思います。
そういえば、天武天皇の「飛鳥浄御原令」(施行は持統天皇になってから)は後の律令制の基礎となり、それが「大宝律令」へと発展していくのですよね。
『万葉集』の歌だけを見ても、このような歴史的背景が伺えるというお話しでした。^_^
【参考資料】
鶴 久/森山 隆 編『萬葉集』桜楓社 1986年
©2022 九條正博(Masahiro Kujoh)
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