見出し画像

【考察】2月22日は聖徳太子の命日か?

九條です。

今日、2月22日は広く一般に聖徳太子(厩戸皇子うまやとのみこ)の命日として知られていますね。これについて、少し考えてみました。

ただこの記事は、論文でも研究ノートでも研究レポートでも何でもなく、聖徳太子の命日に際して私がただ何となくボンヤリと頭の中で思い浮かべた事を記したただけです。ご了承ください。


はじめに

2月22日は厩戸皇子うまやとのみこ(聖徳太子)の命日として広く一般に知られている[1]。そのほか太子の命日としては4月3日[2]、4月8日[3]、4月11日[4]とされている場合もある。しかし後述のごとく『日本書紀』には厩戸皇子が死去した日は「推古天皇二十九年春二月五日」と記されている。これを現在の暦(新暦)になおすと西暦621年3月3日となる。

太子忌について、なにゆえこのような混乱が生じているのであろうか。その理由のひとつとして『日本書紀』の記述と『上宮聖徳法王帝説』の記述との間に齟齬がある点があげられる。その上で両者に拠る旧暦と新暦との解釈が混在している点が指摘できる。

上述の『上宮聖徳法王帝説』に拠れば太子が死去したのは「(推古天皇三十年)二月二十二日」と記されている。これは新暦に換算すると4月8日となる。これが2月22日(新暦4月8日)が太子の命日とされるに至った経緯であろうと思われる。


『日本書紀』の記述

厩戸皇子の命日については上述のように多少の混乱があるがここでは『日本書紀』の記述を読んでみたいと思う。『日本書紀』には、

廿九年春二月己丑朔癸巳 半夜 厩戸豐聰耳皇子命薨于斑鳩宮 是時 諸王諸臣及天下百姓 悉長老 如失愛兒而鹽酢之味在口不嘗 少幼 如亡慈父母以哭泣之聲滿於行路 乃耕夫止耜 舂女不杵 皆曰「日月失輝 天地既崩 自今以後 誰恃哉」

是月 葬上宮太子於磯長陵 當于是時 高麗僧慧慈 聞上宮皇太子薨 以大悲之 爲皇太子請僧而設齋 仍親説經之日 誓願曰「於日本國有聖人 曰上宮豐聰耳皇子 固天攸縱 以玄聖之德生日本之國 苞貫三統 纂先聖之宏猷 恭敬三寶 救黎元之厄 是實大聖也 今太子既薨之 我雖異國心在斷金 其獨生之何益矣 我以來年二月五日必死 因以遇上宮太子於淨土 以共化衆生 」於是 慧慈 當于期日而死之 是以 時人之彼此共言「其獨非上宮太子之聖 慧慈亦聖也」

とある[5]。

これについて以下に筆者(九條)が現代語訳(意訳)を試みる[6]。

(推古天皇)二十九年の春二月五日[7]、夜半に厩戸豐聰耳皇子命うまやとのとよとのみみのみこのみこと(厩戸皇子=聖徳太子)は斑鳩宮いかるがのみやにて薨去された。この時、諸王、諸臣および天下の人々は、老いた者は我が愛し児を失ったかの如くに悲しみ、塩や酢などの味さえも分らぬ程であった。若き者は慈父・慈母を失ったかの如く泣き叫び、その声は世に溢れた。農夫は耕作を休み、稲をつく女は杵を取らず。

「日月は輝きを失い、天地は既に崩れ、今より以後、誰を頼りにすればよいのか」

と皆は口々に言った。

この月、上宮太子(厩戸皇子うまやとのみこ=聖徳太子)を磯長陵しながのみささぎに葬った[8]。まさにこの時、高句麗僧の慧慈えじ[9]は(高句麗へ帰っていたのだが)、太子薨去の知らせを聞いて大いに悲しみ、太子のために僧を集め法会を設けた。自ら経を説き、

「日本国に聖人しょうにんあり。いわく上宮豊聡耳皇子かみつみやのとよとみみのみこ。天より許しを得て深きひじりの徳をもって日本の国に生まれ、三統[10]の聖王を抜き、先聖を継ぎ、三宝[11]を敬い、多くの人々を災厄から救った。これまさに大聖だいしょうである。いま既に太子が薨去された。私(慧慈)は国を異にするとはいえども、太子との心の絆ははがねの如くに固く断ちがたい。私は独り生き残ってしまい何の利益があろうか。来年の二月五日を以て、私もきっと死ぬだろう。そのことによって浄土において上宮太子と遇い、共に衆生を教化[12]する」

と誓願した。そして慧慈はまさにその日(翌年の二月五日)に亡くなったのである。このことをもって当時の人たちはみな口々に、

ひじりは上宮太子独りにあらず、慧慈もまた聖なり」

と言った。

などとなる。


まとめ
厩戸皇子うまやとのみこは、その死去の日時や死因について、またその他の様々な事績についてもいまだに謎多き人物であるが、その実在性については疑う余地がないと思われる。ただ現在までに伝えられている彼の業績については疑問が残る。しかしその問題についての論議はここでは留保する。

彼が発布したとされる「十七条憲法」において、彼は日本人の根本的な価値観、例えば有名な「和をもったっとしとなせ(以和爲貴 忤爲宗)」のほかにも「誰に対しても礼儀を重んじること(群卿百寮 以禮爲本)」「相手の立場に立って物事を考え、相手の気持ちを理解すること(絶忿棄瞋 不怒人違 人皆有心 々各有執)」などを説いた。

これはその後のわれわれ日本人の「こころ」を形成したと言えるものであり、また彼が制定したと伝えられている「冠位十二階」はその後の我が国の古代における律令制の萌芽と位置付けることができる制度である。

こうしてみると、厩戸皇子(聖徳太子)は我が国の歴史にとって政治的にも文化的にも偉大なる功績を残した人物であると思う。

(令和五年春二月廿二日 九條正博 聖徳太子忌に記す)


【註】
[1]『上宮聖徳法王帝説』に拠れば推古天皇三十年二月二十二日
[2]推古天皇30年2月22日を新暦に換算すると4月8日となる
[3]推古天皇30年2月22日を新暦に換算すると4月3日となるとされているが根拠不明
[4][3]と同じように推古天皇30年2月22日を新暦に換算すると4月11日となるとされているが根拠不明
[5]『日本書紀』推古天皇三十年条(廿九年春二月己丑朔癸巳 以下)
[6]筆者(九條正博)による意訳
[7]西暦621年3月3日
[8]大阪府南河内郡太子町大字太子 叡福寺境内(聖徳太子磯長御廟:叡福寺北古墳)
[9]慧慈(?〜623年)聖徳太子の師となった僧。高句麗出身。
[10]三統(天・地・人=夏・殷・周)三統暦から
[11]仏・法・僧の三宝。仏教弘通において最も大切とされる宝
[12]仏教の教えを説き弘め衆生を救済すること


※トップ画像は聖徳太子磯長御廟(フリー素材 photo AC さんより)

©2022-2023 九條正博(Masahiro Kujoh)
剽窃・無断引用・無断転載等を禁じます。